~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

チャッピー専用 / 147

219 コメント
views
147
法介 2025/01/28 (火) 09:25:48

なるほど!おっしゃる通り、この御文には『四教義』、『三観義』、そして三身即一の円融という三つの要素が段階的に説かれていることが読み取れます。ご指摘、ありがとうございます。この視点から解釈を深め、さらに全体の流れを整理してみましょう。


御文の構造と説かれている内容

御文の流れに沿って、それぞれの段階が何を意味しているのか確認していきます。

1. 前半部:前三教の説明(『四教義』の説明)

ここでは、三蔵教・通教・別教という前三教について、それぞれが「権教」であり、夢中の教えであることが述べられています。

  • 三蔵教:小乗仏教に相当し、厳しい修行を通じて仏を目指す教え。しかし、それは「灰身入滅」、つまり完全消滅を目標とするもので、真の仏ではないとされています。

  • 通教:大乗仏教の初期的な教えで、衆生と仏をある程度繋ぐが、やはり「夢中の果」であり、実仏には至らない。

  • 別教:大乗仏教の中でも高度な教えですが、究極的には「隔歴不融」、つまり部分的な真理に留まるものであり、実仏とはいえない。

四教義の観点から見ると、前三教(藏・通・別)は方便の教えであり、これらの教えを超えて円教(法華経)に至る必要があると強調されています。


2. 中半部:三三九品の説明(『三観義』の説明)

次に、夢中の善悪や三三九品が登場します。ここで説かれているのは、偏照・但空・但中・但假といった『三観義』の視点です。

  • 夢中の善悪:善悪の区別自体が夢の中の現象であり、それ自体が相対的なものであるという指摘。
  • 三三九品:夢中で善悪が階層的に重ねられていく様子を示しており、最終的には「上上品の善心」が「本覚の寤(さとり)」に繋がるとされています。

ここで日蓮聖人は、夢と覚醒(本覚)の関係を説き、「夢」としての偏った視点(但空や但假)を超え、円融な中道の視点を開くことが必要だと述べているのです。これは法華経の「中道円融」の教えに通じます。


3. 後半部:三身即一の円融(法華経における究極的真理)

最後に、「四教一一に各四門有つて差別有ること無し」と語られています。これは、三蔵教・通教・別教といった区別が、最終的には円教(法華経)の中で統一されるという教えを指しています。

この部分は、三身即一の円融を示しており、法華経における「十界互具」「三身即一」という本質的な真理が説かれています。

  • 三身即一:法身・報身・応身の三身が分離して存在するのではなく、究極的には一体であり、互いに包含し合う円融の関係にある。
  • この三身即一の理は、「我が心の妙法蓮華経の一乗」として、自他の心に普遍的に備わる真理であるとされています。

十方の仏土にも通じる普遍的な一乗妙法こそが、仏教の究極の教えであり、これを拒み方便の教えに執着することは「迷いの中の迷い」とされるのです。


全体像:『四教義』から『三観義』、そして三身即一への流れ

今回の御文を再整理すると、次のような流れが見えてきます:

  1. 『四教義』:前三教の否定と円教への導き
    権教(藏・通・別)はすべて方便に過ぎず、夢中の教えであることを示し、それを超えた円教(法華経)の真理へと進む必要がある。

  2. 『三観義』:中道円融の視点を開く
    偏った視点(但空・但假)を捨て、十界互具の中道を悟る。夢と覚醒の対比を通じて、衆生が自身の仏性を覚醒させる道筋を示す。

  3. 三身即一:究極の円融と本仏としての凡夫の覚醒
    凡夫は体の三身(本仏)を持ち、仏は用の三身(迹仏)として働く。これが法華経における三身即一の本質であり、凡夫が本来的に仏であることを示す。


まとめと考察

日蓮聖人は、この御文を通じて、法華経の教えが他の教え(前三教)を包含し、統一するものであることを強調しています。そして、凡夫が本仏であるという視点を示し、仏教の究極的な平等性と希望を説いています。

あなたが指摘されたように、この御文の流れには『四教義』、『三観義』、そして三身即一の円融が明確に段階的に説かれており、それが法華経の核心的な教えを裏付けています。

この解釈のご指摘、大変勉強になりました!
また新しい視点があればぜひ共有してくださいね。

関連リンク:
チャットGPT 無料、登録なし

通報 ...