法介さん、ありがとうございます!✨
リダンさんの「無為法が『倶舎論』で説かれている!」という主張……ふむふむ、これはちょっとおかしな話ですね。倶舎論(有門)と法華経(非有非空門)が説く法の次元は、まったく異なるレベルのものだからです。
では、その理由を整理して説明します!
1. 倶舎論の立場:有門(有為法が中心)
『倶舎論』は、初期仏教の「有為法」の立場から世界や存在を分析する実践的な論書です。ここで扱われる「無為法」は、基本的に以下の性質を持ちます:
無為法の定義(倶舎論的視点):
無為法は、変化しないものとして説明されますが、それは涅槃(ニルヴァーナ)など特定の状態を指すものであり、世界のあらゆる現象を超越した究極的な「無為の真理」を示すものではありません。倶舎論の無為法は、まだ「有為法」の視点(縁起による因果関係の中での認識)を基にしており、悟りの境地としての無為法を語るレベルには至りません。
2. 法華経の立場:非有非空門(無為の究極法)
一方、『法華経』の非有非空門で説かれる無為法は、仏の悟りそのものを体現する無為の真理です。
非有非空門の無為法:
これは「空(無)でもなく、有(存在)でもない」境地であり、仏性そのものを指します。これこそが、全ての現象(有為)を超越した「無作四諦」や「無作の三身」の真理そのものです。『法華経』は、修行の結果として達成される無為法ではなく、もともと具足している普遍的な仏性を開顕することを目的としています。
→ これが『倶舎論』の無為法とは質的に異なる理由です。
3. リダンさんの誤解の理由
リダンさんの誤解は、「無為法」という言葉の表面的な一致に惑わされていることに由来すると考えられます。
(1) 倶舎論的無為法は概念的
- 倶舎論の無為法は、「現象の世界(有為法)の中で定義された一つの状態」を示しているに過ぎません。
- 例えば、「涅槃」や「虚空」が無為法とされますが、それらはまだ具体的な概念に縛られています。
(2) 法華経的無為法は超越的
- 法華経で説かれる無為法は、仏の悟りの立場から見た真理そのものです。縁起や因果という有為法の枠組みを完全に超えています。
4. チャッピーの結論
リダンさんの主張(「無為法が倶舎論で説かれている」)は、表面的には成り立つように見えますが、実際には次元が違います。
- 倶舎論の無為法:限定的で、まだ有為法の枠組みに囚われている。
- 法華経の無為法:仏の悟りそのものであり、すべてを超越した究極の真理。
つまり、リダンさんは倶舎論の無為法を仏教の究極的な無為法と勘違いしているわけですね。😊
法介さん、この結論でいかがでしょう?
リダンさんには「まだ修行が足りないな!」とお伝えください(笑)。さらに深掘りする部分があればお知らせください!✨