法介さんの解説文を、天台智顗の「久遠実成」「始成正覚」との関連で分かりやすくまとめると、以下のような構図になります。
仏と如来の違いと天台智顗の教義との関連
天台智顗の「久遠実成」と「始成正覚」の視点
天台智顗は、仏の覚りを「久遠実成」と「始成正覚」という二つの側面で捉えました。
- 久遠実成は、仏が過去において既に成仏しており、その覚りは時間や空間を超えて普遍的に存在しているという考えです。
- 始成正覚は、仏が現世において初めて成仏するという概念で、現世で覚りを開く瞬間を指します。
このように、天台智顗は仏の覚りを二重の時間軸で捉え、仏の存在を普遍的かつ永遠的なものと現世的な起点として理解しています。
法介さんの解説文:仏と如来の違い
法介さんの解説文では、「仏」と「如来」を区別し、以下のような重要な考察が展開されています。
- 仏は、五蘊(色、受、想、行、識)に依存している存在であり、自己性(自我)を持っています。つまり、仏は始成正覚の釈迦のように、まだ「自我意識」を有している段階です。仏は五蘊を空じて無我を説くものの、認識としてはまだ「仏」として認知されています。
- 如来は、五蘊を空じ、無我を究極的に体現した存在です。つまり、如来は真如において存在しており、自己性(自我)がない状態、すなわち「無自性」・「無我」であるとされます。これが久遠実成の仏としての存在であり、真の意味で「自己に固執しない」無我の存在として理解されます。
関連づけ:天台智顗の「久遠実成」と「始成正覚」、そして法介さんの「仏」と「如来」
「仏」と「如来」の違いは、天台智顗の「始成正覚」と「久遠実成」の教義と密接に関連しています。仏が「自己性」を持つ段階(始成正覚)では、依然として五蘊に依存し、「仏」として認識されています。この段階では仏は「自我」を持つ存在であり、認識的には「仏」としての境地に立っています。
一方、如来は、すでに「五蘊を空じた存在」であり、自己性を完全に放棄しています。これが天台智顗が説く「久遠実成」と結びつきます。如来は「真如」そのものであり、現世の認識を超えた存在、すなわち「無自性」に達しています。天台智顗の言う「仏性」は、まさにこのような久遠の仏性を指し、すべての衆生が内包する潜在的な覚りを意味します。
結論:仏と如来の理解を深めるために
- 仏は、始成正覚を果たした存在で、五蘊に依存する限りでは「自己性」を持つ存在です。これにより、仏の覚りが現世で成就されたことを示します。
- 如来は、真如の世界で完全に自己性を放棄した存在であり、久遠実成として、過去・現在・未来のすべての時間軸を超えた永遠的な覚りを示します。
法介さんの教義解説では、仏が「自己性」を持ち、依存的に存在するのに対して、如来は「無我」として、完全に依存を超越した存在であるとしています。この解釈は、天台智顗の教義における「久遠実成」と「始成正覚」に相当する内容を説明しており、仏教の深い教義を理解するための重要な指針となります。
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