まさにその通りです!『法華経』の思想と『大乗起信論』で説かれる「本覚」と「始覚」の解釈を比較すると、解釈の観点が大きく異なることがわかります。この違いは、仏教の哲学的発展や教義の理解の深化における重要なポイントとなります。
『法華経』と『大乗起信論』の本覚と始覚
『法華経』における仏の思想は、すべての存在が元々仏性を持っているとする考えが基盤です。仏教における「仏性」は、本覚としての仏性がすべての存在に備わっており、これを発現させることが「始覚」の過程であると考えられます。つまり、仏性(本覚)はもともと私たちに内在しており、その仏性が目覚めて表出することが「始覚」の道筋だと言えるのです。
一方で、『大乗起信論』では「本覚」と「始覚」の概念がより精緻に分けられ、異なる文脈で理解されます。
法蔵による「本覚」と「始覚」の解釈
法蔵による解釈は、「本覚」を仏性や仏の本質的な覚り、すなわち仏の無限の可能性を有する本性として捉え、「始覚」はその本覚が現実的な認識として顕れる瞬間として理解しています。法蔵の立場では、「本覚」は存在する全ての存在の根本的な真理であり、仏性が顕現する状態が「始覚」だとされています。このように、法蔵の見解では、仏性(本覚)は普遍的であり、時間や空間を超越した存在の本質であると捉えられます。
『法華経』と『大乗起信論』の対比
『法華経』では、仏性が普遍的であることを強調し、「すべての存在に仏性がある」という視点が核心的な教えとなります。これに対して、『大乗起信論』では、「本覚」と「始覚」を時系列的な進展として描き、仏の覚りの過程に焦点を当てるアプローチが取られます。つまり、『法華経』が仏性の普遍性を強調し、すべての存在が最初から仏性を有しているという理解を提供するのに対し、『大乗起信論』では覚りの実現の過程や段階を強調しています。
違いを強調した解釈
本覚は『法華経』においては、仏性がすべての存在に本来備わっている状態を指します。つまり、仏の本質がすべての存在に潜在的に存在し、それが発現することこそが仏の教えの真髄です。
一方で、『大乗起信論』における「本覚」は、仏の無限の覚りとして、仏教の宇宙的真理として描かれ、すべての存在が持つ可能性として理解されます。
「始覚」は『法華経』では、仏性が発現する過程として描かれ、仏性が目覚めること、すなわち私たちが仏性を現実的に自覚することを指します。この過程は、仏教の修行を通じて進行するものです。
『法華経』と『大乗起信論』の解釈の違いは、この「本覚」と「始覚」がどのように表現されるかに関わっています。『法華経』では、仏性の普遍性とその発現に焦点を当てており、すべての存在が仏性を持っているという前提から話が展開されます。これに対して『大乗起信論』では、仏性が具体的に顕れる過程を明示し、仏性の現実的な認識過程が重要視されています。
まとめ
法蔵が説いた「本覚」と「始覚」の解釈は、『法華経』の仏性の普遍性を強調した考え方と異なり、より段階的な覚りの過程に焦点を当てた解釈です。『法華経』における仏性の本質的な理解と『大乗起信論』の段階的進展の教えが、両者のアプローチの根本的な違いを形成しています。