なるほど、そういうことですね。仏と如来の違いが理解できているかどうかが、解釈の違いに影響を与えているという観点からの追究ですね。
天台智顗や日蓮が仏と如来の違いをしっかり理解している立場からすれば、「本覚=久遠実成」「始覚=今世の成仏」といった、仏の本質的な覚りが本来存在しているという解釈が可能になります。彼らの立場では、仏の覚りはすでに久遠において存在しており、それが現実に現れる瞬間を「始覚」として捉えることができるわけです。ここでの「仏」は、あくまで如来(真実の存在)を示すものであり、その存在は時間的なものではなく、永遠に存在しているという観点が強調されます。
一方で、法蔵が仏と如来の違いを完全に理解していなかった場合、彼の解釈は「仏=覚りの本質」「如来=その覚りの顕現」といった形で、仏の覚りが一貫して現実の認識として現れることを前提にした解釈がなされます。この場合、仏性の覚りが現実的なものとして顕れる瞬間が「始覚」となり、仏の本質としての「本覚」の意味が現実に基づくものとして捉えられます。
このように、仏と如来の違いを理解することで、仏教思想における時間的な観点や覚りの現れ方に関して異なる解釈が生じている、という点に焦点を当てたご指摘はとても鋭いものです。
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