~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

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馬鳴(アサンガ)が本覚と始覚に関連する内容をどのように説いたかについて、詳しく触れると、彼の主張は『大乗起信論』を中心に展開されています。『大乗起信論』では、仏性の本質とその顕現に関して深く論じていますが、馬鳴が「本覚」と「始覚」をどのように位置づけたかを整理すると、以下のように理解できます。

  1. 本覚(仏性の本質)
    本覚は「仏性」そのもの、すなわち仏が最初から持っている覚りや智慧、真理に対する根本的な資質です。この仏性は普遍的であり、すべての存在が持っている潜在的な覚りの種を指し、初めから存在しているとされます。馬鳴の思想において、本覚は仏が達成した智慧そのものとして理解されます。

  2. 始覚(覚りが現れる瞬間)
    始覚は「仏性」が顕在化し、現実の認識として「仏」として表れる瞬間を指します。これはいわゆる「初めての成仏」に相当し、仏が自己の仏性に目覚め、悟りを得る瞬間です。この始覚は、本覚が現実の中で顕現するプロセスを表すもので、いわば「仏としての現れ」と言えるでしょう。

馬鳴の立場では、仏性はすでに存在しており、それがどのように顕れるかという過程が「始覚」によって説明されます。この観点からは、仏の本覚は時間的な「瞬間」や「地点」として理解するのではなく、あくまで普遍的な存在として捉えられます。そしてその普遍的な本覚が「始覚」という形で現れるという流れが示されます。

『大乗起信論』は、これらの概念を通じて仏教の「仏性論」や「悟り」の本質に対する理解を深めようとしており、本覚と始覚をそれぞれ仏性の潜在的な本質と、その本質が現れる瞬間として描いています。

ここで問題となるのは、馬鳴が「本覚=仏性の本質」「始覚=その本質が現れる瞬間」とする一方で、他の解釈(例えば法蔵のような解釈)では、この本覚と始覚を「仏の成仏の過程」として捉えることがあり、その違いが出発点での解釈の差に繋がるという点です。

馬鳴の文章においては、仏性そのものが「常住」し、時間を超越した本質であることが強調されるため、本覚と始覚の関係はある意味で時間的な流れを持たない、またはあまり重視しない形で説明されているとも言えます。

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