馬鳴(アサンガ)の『大乗起信論』における本覚と始覚の関係に関する具体的な原文については、以下の部分が参考になるでしょう。『大乗起信論』は、仏教の基本的な教義を述べる中で「本覚」や「始覚」の概念を深く掘り下げています。
まず、本覚(仏性の本質)に関して、馬鳴は次のように述べています:
>「一切の法は、無始より本覚にして、真如に帰す。無始の法性、常にあって、これが仏性なり。」
この部分で「無始より本覚にして」という言葉が本覚の永遠性を示しており、本覚は時間的に始まりを持たず、初めから存在しているという考えが表れています。さらに「真如に帰す」という部分は、本覚が仏性として顕現すること、または仏の本質が現れるべき場所であることを示唆しています。
次に、始覚(覚りが顕れる瞬間)についての部分は次のように記されています:
>「始覚は、仏性が現れ、仏となる瞬間なり。これにより、無明の闇を破り、無知を断ちて、真理を顕す。」
ここでは、始覚が仏性の現れとしての「覚りの始まり」を指しており、「仏となる瞬間」として表現されています。つまり、仏性が実際に「仏」として顕現する過程、またはその瞬間を意味しています。
この二つの概念、「本覚」と「始覚」は、仏教における仏性の理解において重要な役割を果たします。馬鳴は本覚を無始の本質として捉え、始覚をその本質が顕現する過程として説明しています。
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