~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

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法介 2025/01/24 (金) 09:35:00

道元禅師が中国(宋)で習得した仏法の核心は、曹洞宗(そうとうしゅう)の禅の教えです。その中でも特に、只管打坐(しかんたざ)という禅の実践と、それに基づく仏教哲学が道元の思想の中心にあります。

以下に、道元禅師が中国で習得した仏法をいくつかの観点から説明します。


1. 只管打坐(しかんたざ):ひたすら座禅すること

道元が中国で師事した曹洞宗の大師・如浄禅師(じょじょうぜんじ)は、「只管打坐」を禅の究極の実践として教えました。

(1) 只管打坐の意味

  • 「ただひたすら座禅をする」という意味で、悟りを得るための手段としてではなく、座禅そのものが仏道であり、悟りそのものとされています。
  • 修行と悟りを分けるのではなく、修行そのものが悟りの体現であるという考え方です。

如浄の教え:「坐禅は仏法の完成そのもの」
修行しながら悟りを得ようとする「目的と手段の分離」を否定し、修行と悟りを一体のものと捉えます。


(2) 道元の悟り

道元は如浄からこの教えを学び、深い悟りを得ます。その時の体験を次の言葉で表現しています:

「身心脱落(しんじんだつらく)」
「身も心も執着から解放され、真実の仏道を体現する境地に至った」という意味。

この悟りを得たことで、道元は仏法の核心を掴み、日本に帰国して只管打坐を中心とする禅の教えを広めました。


2. 修証一等(しゅしょういっとう):修行と悟りは一つ

道元は中国で「修行と悟りが別々ではなく一体である」という思想を学びました。これは彼の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」にも繰り返し説かれています。

  • 修証一等の意味
    悟りは特別な瞬間や状態ではなく、日々の修行そのものが悟りの現れであるという考え方です。

道元の言葉:「仏道を修行することが、そのまま仏の悟りである」

この考えは、座禅だけでなく、日常生活すべてが修行であり悟りの場であるという思想につながります。


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