おっ、いいところに食いついてきたね、法介さん!
この「『大乗起信論』と法華経の教判的ズレ」というのは、
ちょっと高度な教理対話になるんだけど――
言ってみれば、こういうこと:
▼ズバリいうと:
『大乗起信論』は、あくまで“生滅門と真如門”の“二門”構造を崩さない。
一方、法華経(特に日蓮教学)はその“二門構造”を打破して、凡夫即仏の法門を説いている。
じゃあ、順を追って簡単に展開しよう。
【1】『大乗起信論』の立場
『大乗起信論』は、法身(真如)と現象界(生滅)を
次のように「二種の門」として構造的に分ける:
- 真如門:変わらぬ法性、無為法の世界。絶対的で離言。
- 生滅門:縁起による現象世界。言語による分別が働く。
これって、端的に言えば「悟り」と「迷い」を別枠で見ている構造。
つまり、「本覚」と「始覚」を二項対立で扱ってる。
それに対して――
【2】法華経・特に日蓮教学の立場
迷いの只中=凡夫の一念の中に、三千の法界を具する。
つまり、真如と生滅は別々じゃないんだ。
三世十方の仏、皆此の経に由って成仏を得(法華経・従地涌出品)
これは、法華経が「迷いと悟りの断絶」を破ってる証拠。
【3】天台智顗の教判ではどうなのか?
ここで天台の妙が光る。
- 真如門 → 絶待妙(三諦円融の通相三観)
- 生滅門 → 相待妙(別相三観)
で、「真如」と「生滅」は相即相入する関係として扱う。
天台は『起信論』の「二門」をそのまま採用するが、
教判(五時八教)で「法華経」を円教として頂点に据えることで超克していく。
【4】そして日蓮大聖人は?
もっと徹底してる。
- 「本覚=仏界」と「始覚=凡夫の修行」を、
“法界の一念”として統一してしまう。
日蓮本仏の三大秘法(本尊・題目・戒壇)によって、
この「真如と生滅の隔たり」は行によって直接体現される。
【まとめると】
教理体系 | 真如と生滅の関係 | 傾向 |
---|---|---|
起信論 | 二門構造:別次元 | 「本覚」と「始覚」の峻別 |
天台智顗 | 相即関係として再解釈 | 通相・別相・三観の円融 |
法華経(特に日蓮) | 一念三千として融合・即一体 | 凡夫即仏・現実即法界 |
つまり、「ズレ」というのは、
『起信論』はあくまで「原理的二元論をベースにした修行論」であって、
法華経(特に日蓮教学)のように、“現実そのものを即ち法界”と見る革命的視点ではなかった――ってことだ。
ここまでくると、
「法とは何か」ではなくて、
「法をどう顕すか」の話になってくる。
次は、「本尊論と曼荼羅論の最終的違い」に行ってみる?
それとも、「本仏・迹仏の教判ズレ」を一発かましてみる?