法介
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2025/01/24 (金) 21:31:30
法介さん、鋭いご指摘ありがとうございます!✨
確かに、先ほどの『大乗起信論』における本覚・始覚の解説は、宝蔵(法蔵菩薩)や真諦三蔵が中国仏教の中で伝えた解釈を基にした説明が中心となっています。これらは、『大乗起信論』の注釈伝統に深く影響を与えたものです。
一方、天台智顗や日蓮の本覚・始覚の解釈は、法華経を中心に据えた独自の枠組みで展開されており、『大乗起信論』の解釈とは異なる部分があります。それぞれの解釈の違いを以下に詳しく見ていきましょう。
1. 宝蔵(法蔵菩薩)と真諦三蔵の本覚・始覚の解釈
(1) 『大乗起信論』での本覚・始覚
- 本覚:すべての衆生が本来的に持っている仏性や悟りの可能性。「如来蔵(真如)」に由来する普遍的な悟りの本質。
- 始覚:修行を通じて、本覚に目覚める過程や体験。煩悩や無明を克服する修行によって顕現する。
(2) この解釈の特徴
- 「本覚」と「始覚」を、静的(本覚)と動的(始覚)という二つの側面で捉えています。
- 始覚は修行を通じて本覚を明らかにするプロセスであり、究極的には本覚と一体化します。
- この視点は、如来蔵思想と唯識思想の融合に基づいており、修行を重視する立場です。
2. 天台智顗の本覚・始覚
天台智顗の本覚・始覚の解釈は、『法華経』の教えを基盤として展開されています。
(1) 天台智顗の「本覚・始覚」の解釈
- 本覚:すべての衆生が「仏の悟りそのもの」を既に完全に具足しているという教え。
- 始覚:この本覚を実際に自覚し、顕現させるための修行や実践。
(2) 智顗の視点の特徴
- 天台智顗は、『法華経』を基盤として、すべての衆生が平等に仏性を持つという「一切衆生悉有仏性」を強調しました。
- 本覚は、すでに完全であるため、始覚を通じて新たに作り出されるものではないと説きます。
- 修行(始覚)は本覚を「開顕」するものであり、既存の悟りを明らかにする行為にすぎない。
3. 日蓮の本覚・始覚
日蓮の本覚・始覚の解釈は、法華経の「一仏乗」を中心に展開されていますが、天台智顗の思想をさらに進化させたものと言えます。
(1) 日蓮の「本覚・始覚」の解釈
- 本覚:すべての衆生が具えている「南無妙法蓮華経」という絶対的な真理そのもの。
- 始覚:法華経への信仰を通じて、本覚が衆生の現実の生活において顕現するプロセス。
(2) 日蓮の視点の特徴
- 日蓮は、本覚を「南無妙法蓮華経」に具わる仏の力そのものと位置づけ、法華経を実践することで、現実世界で本覚が顕現すると考えました。
- 修行や信仰の行為そのものが、本覚の直接的な開顕であると説いています。
- また、日蓮は「本覚」と「始覚」の関係をより実践的な信仰行為(唱題)に結び付けました。
4. 違いを整理してみる
以下に、宝蔵(法蔵菩薩)系、『大乗起信論』の伝統的解釈、天台智顗、日蓮の解釈を比較します。
解釈者 | 本覚の特徴 | 始覚の特徴 | 特徴 |
---|---|---|---|
宝蔵(法蔵菩薩) | 仏性や真如としての悟りの普遍的基盤 | 修行を通じて本覚を顕現するプロセス | 如来蔵思想と唯識思想の融合 |
天台智顗 | 本覚はすでに完全な悟りであり、仏性そのもの | 修行は本覚を開顕する手段にすぎない | 『法華経』を基盤とした仏性論 |
日蓮 | 南無妙法蓮華経としての究極の真理そのもの | 法華経への信仰(唱題)による直接的な顕現 | 実践的な信仰を通じた仏性の顕現を強調 |
5. まとめ
『大乗起信論』における本覚・始覚の解説は、宝蔵(法蔵菩薩)や真諦三蔵の伝統的な解釈に基づき、「本覚=すでに存在する仏性」「始覚=修行を通じて顕現されるプロセス」として説かれています。
一方で、天台智顗や日蓮の解釈では、『法華経』を中心とし、すべての衆生が平等に仏性を持つという教えを基に、より実践的かつ包括的に本覚と始覚の関係が語られています。
法介さん、この違いをもとにさらに掘り下げていきたい点があれば、ぜひお知らせください!😊
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