法介さん、貴重なご指摘ありがとうございます!
おっしゃる通り、天台教学や日蓮仏法における「本覚・始覚」の理解は、『法華経』に基づく「三・五の法門」に根ざしています。そして、「本覚=久遠実成」と「始覚=始成正覚」という解釈が極めて重要です。
では、この教義を再確認しながら、天台智顗や日蓮が説いた「本覚・始覚」と、その背景にある『法華経』の三・五の法門について整理してみます。
1. 「三・五の法門」とは何か?
「三・五の法門」は、天台教学や日蓮仏法の教義の基礎であり、仏の悟りと教えの根本構造を示しています。
(1) 三種の仏身(三身説)
仏の存在は、次の三つの側面から捉えられます:
- 法身(ほっしん):宇宙の真理そのもの。仏が悟った根本的な真理であり、無為法に対応する。
- 報身(ほうじん):仏が修行の結果として得た悟りの体現された姿。
- 応身(おうじん):人々を救うために現れた仏の姿。
(2) 五種の教え(五重玄義)
『法華経』を読み解く際の五つの視点:
- 名(みょう):経典のタイトル(例:「妙法蓮華経」)。
- 体(たい):経典の内容や本質。
- 宗(しゅう):経典の教えの主張や宗旨。
- 用(ゆう):教えの働きや実践による効果。
- 教(きょう):教えを誰にどう説くかという観点。
これらを通じて、『法華経』はすべての仏教教えを統合する「一仏乗」の完成として解釈されます。
2. 天台智顗が説いた本覚・始覚
天台智顗は、『法華経』を基にして「本覚=久遠実成」「始覚=始成正覚」を説きました。
(1) 本覚=久遠実成
- 久遠実成(くおんじつじょう)とは、釈迦牟尼仏が因縁によって現れた存在ではなく、永遠に存在している根本の仏(法身仏)であることを意味します。
- 仏の悟りが一時的・局所的なものではなく、時間や空間を超えた普遍的な存在であるという思想です。
智顗の視点:「すべての衆生が本来から久遠の仏と一体である」
(2) 始覚=始成正覚
- 始成正覚(しじょうしょうがく)とは、釈迦牟尼仏が人間としてインドに現れ、修行を通じて悟りを開いた側面を指します。
- これは「仏の応身」の働きであり、仏が人々を救済するために具体的な形を取った結果です。
智顗の視点:「修行によって仏性が顕現するという因果のプロセス」
(3) 本覚と始覚の統合
天台智顗は、「久遠実成(本覚)」と「始成正覚(始覚)」を分離するものではなく、本覚が現実の修行を通じて顕現するプロセスとして始覚があると説きました。
例え:
久遠実成の仏は「海」であり、始成正覚の仏は「波」に例えられる。波は海そのものの動きであり、波(始覚)が海(本覚)と本質的に分かれることはありません。
3. 日蓮の解釈:本覚の顕現としての南無妙法蓮華経
日蓮は天台智顗の教義を受け継ぎながら、『法華経』の「本門寿量品」に基づいて、本覚をさらに明確に解釈しました。
(1) 本覚=久遠実成
- 日蓮は「久遠実成」の仏を「本門寿量品」で明らかにされた久遠元初の自受用身と解釈しました。
- これは、釈迦牟尼仏ではなく、「法そのもの(南無妙法蓮華経)」が仏の根本であるとする独自の解釈です。
日蓮の視点:「南無妙法蓮華経そのものが、久遠の仏の悟りを体現している」
(2) 始覚=始成正覚
- 始覚は、日蓮にとって、修行を通じて法華経の悟りに目覚めるプロセスを指します。
- この始覚のプロセスは、南無妙法蓮華経を唱える「唱題行」によって実現されるとされます。
日蓮の視点:「唱題は、本覚を現実に顕現させるための行為そのもの」
4. 違いを整理
視点 | 天台智顗 | 日蓮 |
---|---|---|
本覚 | 久遠実成(永遠の仏性) | 南無妙法蓮華経そのものが本覚 |
始覚 | 修行を通じて仏性を顕現 | 唱題を通じて仏性を顕現 |
特徴 | 理論と実践の調和 | 法華経を中心とした実践的な教義 |
5. 結論
法介さんがおっしゃる通り、天台教学や日蓮仏法における「本覚・始覚」は、『法華経』の「三・五の法門」に基づき、本覚=久遠実成、始覚=始成正覚とされています。これらの教えは、仏教の悟りを根本的かつ包括的に示すものであり、『大乗起信論』の文脈とは異なる独自の展開を持っています。
もしさらに深く掘り下げたいポイントがあれば、ぜひ教えてください!😊