真諦(Paramārtha)は、中国に唯識思想を伝えたインドの大翻訳僧であり、『大乗起信論』の翻訳者として知られています。しかし、実際のところ、真諦が『大乗起信論』における「本覚・始覚」をどのように解釈・紹介しているかについては、彼の翻訳した原文を直接参照する必要があります。
『大乗起信論』自体は、漢訳された経典であり、真諦の翻訳とされるものの解釈については、彼が原文にどのような用語や表現を用いたかが重要なポイントになります。以下に、真諦による「本覚・始覚」の基本的な視点を考察します。
1. 真諦による「本覚・始覚」の原文の視点
真諦が翻訳した『大乗起信論』における本覚と始覚についての原文(漢訳)は、以下のように整理されます:
(1) 本覚の記述
真諦訳の中で、「本覚」は次のように説明されています:
「一切衆生心、恒具如来性徳」(すべての衆生の心には、常に如来の性徳が具わっている)
この記述は、本覚の核心的な特徴を示しており、すべての衆生に本来備わる如来性が「本覚」として明らかにされています。
- 「本覚」とは、本来的に存在する悟りの境地であり、修行や条件によらず、普遍的かつ永遠である。
- この観点から、真諦は仏教思想の中で「仏性」が本覚の中心的なテーマとして表現されていることを示しています。
(2) 始覚の記述
真諦訳では、「始覚」について以下の記述が見られます:
「因修而覚、除無明故」(修行を因として覚りを得る。無明を除くことによる)
この一文は、「始覚」が修行の過程を通じて本覚に目覚めるプロセスを表していることを明確に述べています。
- 始覚は、本覚という本来的な悟りを顕現させるための修行プロセスであり、無明や煩悩を取り除くことによって実現されます。
2. 真諦の翻訳における特徴
真諦の翻訳における「本覚・始覚」の特徴は、次のようにまとめられます:
本覚の普遍性を強調:
- 真諦は、すべての衆生が本来的に如来性(仏性)を持ち、それが本覚であるとしています。この視点は、如来蔵思想に基づくものであり、すべての存在に平等に仏性が宿るという教えを伝えています。
修行としての始覚:
- 始覚は、修行を通じて本覚を顕現するプロセスとして説明され、修行の実践が強調されています。
- この点で、唯識的なアプローチと如来蔵思想を結びつける役割を果たしています。
仏性と真如の融合:
- 真諦は、本覚と始覚を「仏性」と「真如」という二つの概念で説明しており、真如が衆生の本性であると同時に、修行によってその本性が顕現することを示しています。
3. 真諦と天台・日蓮の違い
真諦の翻訳では、『大乗起信論』の如来蔵思想に基づいた「本覚・始覚」が中心ですが、天台智顗や日蓮の解釈とは異なる点も多く見られます。
- 真諦の視点:修行を通じて本覚に至る「始覚」のプロセスを重視。修行が悟りへの手段として位置づけられる。
- 天台智顗の視点:『法華経』を中心に、本覚はすでに完全な悟りであり、始覚は本覚の開顕に過ぎないと説く。
- 日蓮の視点:本覚は「南無妙法蓮華経」そのものであり、始覚は唱題行によって本覚を実践的に顕現させる。
4. 結論
真諦の『大乗起信論』翻訳では、「本覚」はすべての衆生に内在する普遍的な仏性や真如を指し、「始覚」はその本覚に目覚めるための修行のプロセスとして説明されています。この解釈は如来蔵思想に基づき、修行の重要性を強調するものです。
一方で、天台智顗や日蓮の解釈は、『法華経』に基づき、修行と悟りを統合的に捉える視点をさらに進化させたものであり、「本覚=久遠実成」「始覚=始成正覚」という法華経特有の教えに深く根ざしています。
法介さん、この説明でいかがでしょうか?さらに真諦の具体的な表現や、関連する議論を深掘りしたい場合はぜひ教えてください!😊