2.教相と観心
「相待妙」では、お釈迦様が説かれた一代聖教を五時八教に分類わけして比較対象し、その勝劣をあきらかにする訳ですが、それは文字によって示された教相による判別で、「教相判釈(はんじゃく)」と言います。
その「教相」に対する言葉で「観心」があるのですが、『観心(の)本尊抄』で大聖人様は、
「観心とは我が己心を観じて十法界を見る 是を観心と云うなり」
と仰せになり、十界曼荼羅の御本尊を「観心の本尊」として顕されました。御文の中の「己心を観じて十法界を見る」とは、十界曼荼羅を本尊として崇めて「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えた時、自身の心が観じて十法界を見ることが出来るということです。
御本尊は仏の十法界が示されており、我々凡夫は凡夫の十法界です。人の心は意識から成ります。意識が遠のくことで人は死を迎えます。しかしそれは、表層の意識が停止しただけであって死後も深層意識として意識は存在し続けます。
歴劫修行によって肉体から解脱した阿羅漢は天界に留まり、そうでないものは六道輪廻をくり返します。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の欲にまみれた六つの境界でこの六つをまとめて欲界と呼びます。
その欲界の上に色界があって更に最上部に無色界が存在します。この三つを三界と称して仏法の世界観は形成されています。
凡夫が住処とする欲界の上に位置する色界は、禅定によって肉体から解脱し、淫欲と食欲の二つの欲を離れた穏やかな境地です。しかし、因縁によって再び欲界に転生するので欲界と等しく未だ物質的要素を含んだ世界です。
欲界が六道が住む世界なのに対し、色界は声聞・縁覚・菩薩・仏の住む世界とも言えます。
三つ目の無色界は、物質的なものから完全に離れた如来の住む真如で、三界の最上部に位置します。ここに位置する如来を法身如来と呼び、法身如来が色界まで降りてきて声聞・縁覚・菩薩に対して法を説くのが報身如来、そして欲界の凡夫にも認識出来る姿で地上に現れるのが応身如来です。
【法身】(無色界) – 色も形もない真理(法)そのもの。真如。
【報身】(色界) – 声聞・縁覚・菩薩の三乗は修行の果徳として仏の法を受け用いる。果徳の受け方には以下の二種がある。
自受用身 – 自らに法楽を受け用いる。(一念三千)
他受用身 – 衆生に法楽を受け与える。(阿弥陀仏)
【応身】(欲界) – 衆生に応じて出現する仏。地上に出現したお釈迦様。
この三界を別々にみるのが爾前権教の教えで、実教の法華経では三界が凡夫の一身にあらわれると説きます。
方便として説かれた阿弥陀仏は「他力本願」の他受用身ですので報身仏です。三身も三界も別々に位置する爾前権教の教えなので欲界の凡夫を他界の仏が救っていきます。
対して法華経で説かれる一念三千は、自受用身の報身です。法身は「南無妙法蓮華経」で凡夫の体が応身で、この法身・報身・応身の三身が凡夫の一身にあらわれて三身即一身の本仏(真実の仏)の三身如来と成ります。
大聖人様は伝教大師の言葉をかりて「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」と仰せになられています。
御本尊に向かってお題目を唱えることで、己心に十法界を観じて即身成仏の本仏となります。それが「観心の本尊」の観心の意味するところで、一念三千の仏の智慧(自受用身)を観じとるということです。
三身相即なるが故に、一念三千は自らに法の果徳を受け用いる自受用身ですが、それ以外の仏像等の本尊は三身が別体の他受用身ということで権仏(仮に示された仏)となります。