~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

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法介 2025/01/26 (日) 16:29:43

仏の悟りを得るということは、仏の法に対する因(修行)を積んでその報いとして悟りとしての果を得るということです。

仏法修行者が、仏の悟りを修得するまでの全ての修行のことを万行といいます。仏の「五十二位」の悟りや、菩薩が行ずる六つの修行過程「六即」の行位がこれにあたります。これらを因位の万行といいます。

そしてその修行の因の報いとして受ける仏に備わる全ての功徳相を果位の万徳といいます。

『観心本尊抄』では次のような事も日蓮さんは云われております。

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給(たも)う」

ここで仰せの「因行果徳の二法」とは、今ご説明しました「因位の万行」と「果位の万徳」のことを言います。

歴劫修行が根幹となっている釈迦仏法では、三祇百大劫という気が遠くなる程遥かに長い年月の間に転生し、修行を行わなければ成仏することは出来ません。

仏に成る因を積んでその結果として成仏という果報を得るといった因と果に長い時間差が生じる「因果異時」の立ち場で説かれた厭離断九の仏だからです。因と果に隔たりがあるため個別に説かれた空仮中の三諦も隔たった隔歴(きゃくりゃく)の三諦となります。(隔歴の三諦=別相三諦)

それに対して日蓮大聖人の仏法は、受持即観心を説いた「因果倶時(いんがぐじ)」の仏法で因と果が同時に備わります。妙法を唱うる一念に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」とありますように三世十方の諸仏のあらゆる因位の修行も果位の万徳も妙法蓮華経の五字に同時にそなわっているのです。

空仮中においても三即一、一即三と言いまして三は一に即し、一は三に即して相即相入して三諦が円融します。

一念三千の法門は、客観認識で解釈した実体に即した仮諦の一念三千と、主観に即して五蘊を空じることで観じとる空諦の一念三千と、仏の悟りに即して三身が我が身に顕れる中諦の一念三千とがあります。

仮諦の一念三千は日蓮正宗や創価学会の客観認識で展開された差別相からみた一念三千です。善悪といった分別観から離れることが出来ていないため互いの存在を悪と決めつけて罵り合っているのが実情です。

善も悪も自身の分別する心から生じているのだと客観認識から離れて五蘊を空じることで対象の捉え方が180度変わって見えたりもします。それが空によってもたらされる一念三千です。

空の一念三千は、いうなれば「気づき」とでも言いましょうか、見方を変えることで今までは悪人と思い込んでいた人物が実は善人だったというような話に喩えられます。

気づきの先に悟りがあります。仏の悟りは我々凡夫の想像を遥かに超えるものでそれは言葉では言いあらわせません。体験することで確信していきます。まさに信をもって会得するものです。

その悟りの世界観に我が身がつつまれて法身・般若・解脱の仏の三種の徳相が中諦の悟りの一念三千として顕れます。

【法身】とは仏が証得した真理。(法身如来)
【般若】とは真理を覚る智慧。(報身如来)
【解脱】とは生死の苦悩から根源的に解放された状態。(応身如来)

客観で認識できる現実にあらわれた色相を中心に十如是が働くと仮の一念三千が広がって自身をとりまく仮の世界が立ち上がります。(衆生世間)

客観世界を立ち上げている自身の五蘊を空じ、心から生じると書いて「性」を中心として十如是が働くと、実体への執着が離れて心を中心に空諦の一念三千を観じとることが出来ます。(五陰世間)

表層の意識をとらえていた心(六識)が、末那識(七識)・阿頼耶識(八識)と深層へと向かうことで、認識の変化が起こります。そして奥底の「九識心王真如の都」である南無妙法蓮華経という仏の因行・果徳の二法を譲り受け給って中諦の悟りの一念三千が顕れます。(国土世間)

このように凡夫の一身に空・仮・中の三諦が円融して顕れるのが一身即三身、三身即一身の三身相即の円融の三諦です。そのことを大聖人様は、『一念三千法門』の中で次のように仰せです。

「此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす 是れ僻事にて二義かけたり 天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、 第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ 如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり 是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり 八万四千又は般若とも申す、 第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり 是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり 是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり 又は解脱とも申す、 第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり 是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、 此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す 此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す」

この御書は、大聖人様が三七歳の御時、いまだ観心の本尊を顕される以前に顕された御書なので、教相の立場で一念三千の法門を示されています。ですから「此の一念三千一心三観の法門は」と観法(止観法)とまず述べて論を走らせ天台の教相の法華経をもって三諦の円融を御指南あそばされております。

そして十如是の三遍読に示されるように法華経(もしくは釈迦像)を本尊とした読誦の「教相の法華経」がここでは示されています。

三諦の円融にも教相と観心の違いがありますが、その違いが文上の理の一念三千と文底の事の一念三千の相違です。

観法や仏像を本尊とする修行法はすべて教相の法華経で、大聖人様は52歳の御時に『観心本尊抄』を顕して「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と末法に於ける本尊を「南無妙法蓮華経」と定められました。

私たち末法の凡夫は、因果の功徳を摂(おさ)めた妙法五字の御本尊に向かい唱題に励むとき、受持即観心の義が相成って、仏が証得された因果一念の功徳を自然に受けたまわることができるのです。

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