「因果異時」と「因果倶時」の関係は、『当体義抄』の中で説かれる「比喩蓮華と当体蓮華」の関係にあたります。
三周の説法に約してここのところを論ずると、『方便品第二』で諸法実相をもって法体とする法説周を当体蓮華といい、上根の声聞は「蓮華」という呼び名は、喩えていったものではなく、蓮華は法の名であって法華経の法門のことであると悟ります。
かたや中根・下根の声聞に約する時、「蓮華」という譬えの名を借りた譬喩説であり、蓮華は因果が一時にそなわっているところが妙法に似ているという譬喩蓮華となります。
天台大師が法華玄義の第一の巻に 、「妙法は解しがたいが、譬えを仮りれば理解しやすい」と釈したのはこの意味です。
『当体義抄』では、そこのところを次のように述べられています。
「問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云、此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」
天台大師の法華玄義巻七下の意味は、妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人がその理を勧じて万物に名をつけるとき、因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである。
この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具足して、一法も欠けるところがない。よってこの妙法蓮華を修行する者は、仏になる因行と果徳とを同時に得るのである。聖人は、この妙法蓮華の法を師として修行し覚られたから、妙因・妙果を倶時に感得し、妙覚果満の如来となられたのである。
「本門における十界の因果」が因果倶時に基づいた本覚本有の真実の十界互具であり、そのことが『十法界事』で次のように述べられています。
「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず」