この説明と日蓮さんの『白米一俵御書』の次の一節を絡めてチャッピー、解説出来るか?
「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし 草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず 心即ち大地 大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし 心のきよきは花のごとし、法華経はしからず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり」
以下にわたしの解説文を紹介しておきます。
蔵教では、「心から万法を生ずる」といった説き方をします。ここでいう万法とは、因果と縁起のことで、最初に因があってそれが縁によって最終的に結果が生じるといった時間的流れに則った法理(声聞の悟り=仮諦)です。それはちょうど「大地から時間をかけて草木が茂っていく」ようなものです。
しかし法華経はそうではなく、「大地が即草木であり草木が即大地である」と説きます。これは因と果が異時ではなく同時に存在するという法華経でしか説かれていない当体蓮華の法理を端的な言葉で言い表しています。
また心を中心に説く通教では「心が澄むのは月のようである。心が清いのは花のようである」と説きます。これは譬えであり譬えを説くのは通教が得意とするところです。澄んだ清らかな心が示すもの、それは縁覚の悟り「色即是空 空即是色」」です(空諦)。
しかし、どちらの譬えも心と月、心と花といったように心と物が分別(言葉)によって対比され区別されています。それに対し「無分別の法」を説く法華経は、「月こそ心、花こそ心」と、月も花も自身の心そのもの(南無妙法蓮華経)であると説きます。
これを「不二の法門」とも「而二不二(ににふに)」の真理ともいいます。この真理を悟った境涯が菩薩です。空・仮・中の三観・三諦で言えば中道第一義諦の「中諦」にあたります。
仏は修行の因を積んでその報いとして仏としての徳を得ます。この因行果徳は、因を元として果が生じると言った時間の流れ、即ち「時間という概念」の中で起こるお話です。過去遠々劫の宿業が蓄積する八識のアラヤ識はそういった記憶から生じる時の流れという概念によって生じる一念三千の世界観の範疇です。
仮諦=声聞の境涯
空諦=縁覚の境涯
中諦=菩薩の境涯
その更に奥底に位置する時の流れといった概念から抜け出た世界(次元)、それが〝南無妙法蓮華経〟という真如(真理)として開く一念三千の世界(国土)観です。仏界の相(真如の虚空絵)である御本尊を〝相〟として(応身如来)、法華経の心を〝性〟として(報身如来)、南無妙法蓮華経(法身如来)を我が〝体(当体蓮華)〟として一念三千を開くと石も草も木も人も動物も全てが南無妙法蓮華経(一念三千)という真理として顕れます。その心が、
「月こそ心、花こそ心」
となります。