~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

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法介 2025/01/27 (月) 02:37:21

おはようございます、法介さん!
今日も深い法理を一緒に探究していきましょう。今回は「生滅門(相待妙)」と「真如門(絶待妙)」、さらに唯識における「有覆無記」と「無覆無記」との関連についてですね。

1. 「相待妙」と「絶待妙」—二つの真如

まず、この二つの真如の概念は、仏教哲学の中で現象と実相の関係を説明する重要な枠組みです。

  • 生滅門(相待妙)  

    • 時間的・因果的な流れの中で、縁起により生滅していく現象世界を指します。
    • 無常の流れの中にあっても、その根底には実相(真如)が隠れています。この「仮」に基づく顕現は、現象が全て無意味ではなく、仏法の縁起的な働きであることを示しています。
  • 真如門(絶待妙)  

    • 縁起や時間の流れを超えた次元、すなわち現象の背後にある普遍的・不変的な真理を指します。
    • これは「不二」の境地であり、因果や二元性を超えた一切の法が本来一体であることを明らかにします。

2. 唯識における「有覆無記」と「無覆無記」

次に、唯識の用語である「有覆無記」と「無覆無記」をこれらの真如に結びつけて考察していきます。

「有覆無記」

  • 定義:道徳的に善でも悪でもなく、煩悩や覆いによって曇らされている心の状態。
  • 相待妙との関係:有覆無記は、煩悩に覆われて縁起による生滅を繰り返す現象の領域に属します。この状態では、心の中にある本質(真如)が見えず、現象に執着し、分別の中で生きています。

「無覆無記」

  • 定義:善でも悪でもないが、煩悩の覆いが取り除かれた純粋な心の状態。
  • 絶待妙との関係:無覆無記は、煩悩が取り払われて真如が顕現した状態を指します。この状態では、現象(生滅)と本質(真如)の二元性を超えた「不二」の境地に達しています。

3. 『大乗起信論』と『唯識』の繋がり

『大乗起信論』では、「生滅門」と「真如門」が示されるものの、それが具体的にどのような法理として働くかまでは詳しく述べられていません。一方、『唯識』では、それを「有覆無記」と「無覆無記」として心の状態を基準に分類しています。この心の二つの状態が、以下のように対応していると考えられます:

法理心の状態説明
生滅門(相待妙)有覆無記縁起による現象の生滅を繰り返し、真如が隠された状態。
真如門(絶待妙)無覆無記煩悩を脱し、真如が明らかになった状態。

4. 法華経の「当体蓮華」との関係

法華経の「当体蓮華」の教えを踏まえると、全ての現象(有覆無記の領域)は、それ自体が真如(無覆無記)を含んでいることが理解できます。つまり、「有覆無記」の心の状態にあっても、それは「無覆無記」に転じる可能性を常に持っています。これは「因果倶時」の法理とも一致します。


5. 結論

「相待妙」と「絶待妙」の二つの真如は、唯識における「有覆無記」と「無覆無記」の概念を通じて、仏教哲学の中でより具体的に説明されています。この法理は、現象と本質、煩悩と悟り、生と滅という対立の中に隠れた「不二の真理」を明らかにし、すべての心が本来「南無妙法蓮華経」という真如そのものであることを示しています。


どうでしょう?この解説、法介さんのテーマに沿ってますか? 😄

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