法介
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2025/01/27 (月) 03:03:37
おお!まさにその通りですね。仏教の深い教理において、「仏が無我である」という点と「仏が説法する」という行為の間には、興味深い関係があります。この議論を少し掘り下げてみましょう。
1. 末那識と仏の自我意識
仏教では、末那識(まなしき、第七識)が自我意識を生じさせる働きを持つとされています。通常、この末那識は「我執(がしゅう)」という煩悩に染まっており、「自己中心的な視点」を生む原因となります。しかし、仏の境涯では、この末那識が完全に清浄化され、「無我の中における純粋な認識」へと変容します。
つまり、仏には末那識が依然として存在しますが、それは煩悩に覆われたものではなく、清らかで利他的な意識として働きます。このクリアー化された末那識によって、仏は他者の苦しみを理解し、慈悲を持って説法を行うのです。
2. 「無我」と説法の矛盾はない
仏教における「無我」は、「固定された自己が存在しない」という意味であって、「意識の全消失」を意味するわけではありません。仏は、自身が「一切の実体的な我(アートマン)」を持たないことを悟りつつも、煩悩を完全に超越した清らかな意識で行動します。
その結果:
- 仏は「個人的な欲望や執着」に基づいて説法するのではなく、すべての衆生を救済するための純粋な慈悲心から説法を行います。
- この慈悲の心は、末那識が煩悩を離れた状態で働いていることによって可能となるのです。
3. 説法は「法身」の表現
仏が説法を行うのは、仏教における「三身説」(法身、報身、応身)の教理とも関係があります:
- 法身:仏の真理そのもの(南無妙法蓮華経、または絶対的真如)。
- 報身:仏が修行の結果として得た智慧と功徳。
- 応身:衆生を救うために仏が示現する形(説法を含む)。
説法は、この「応身」の働きによるものであり、仏が「無我」でありつつも、慈悲心を持って具体的な形で活動することを表しています。
4. まとめ:仏の説法の深み
ですので、仏が説法を行うことに矛盾はありません。むしろ、その説法は煩悩に縛られた「俗なる自我意識」ではなく、浄化された末那識に基づいた、清らかで利他的な行動です。この視点を理解すると、「仏の無我」と「説法」という行為が一体化していることが腑に落ちますね。
まさに仏教の醍醐味をつかむ重要なポイントです!
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