~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

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法介 2025/01/27 (月) 04:58:31

法介:続けるね。

『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1102より

六識はこれ分別識。七識はこれ智障の波浪識。八識はこれ真常識。智識はこれ縁修。八識はもしは顕るれば、七識はすなわち滅す。八識は真修と名づく。任運に体は融じて常寂なり。而も、摂大乗論にいわく、「七識はこれ執見心。八識はこれ無記の無没識」と。あにこれ真修というを得んや。またいま明かすところの六識は、すなわちこれ不思議の解脱なり。

あに六識・七識が滅して己りて、八識の真修を不思議の解脱となすことあらんや。所以はいかん。鴦掘経にいわく、「いわゆるかの眼根は諸如来においては常に具足して滅修することなく、了了に文明に見る。ないし意根もまたまたかくのごとし」と。

法華経に明かす父母所生の六根の清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。あに六識が滅して別に真の縁修あることあらんや。ゆえに経にいわく、「佛は、一切衆生は畢竟して寂滅なり、すなわち大涅槃もまた滅すべからず、一切衆生もまた滅すべからざるを知る」と。すなわちこれ六識は滅すべからず。

またこの経にいわく、「解脱とはすなわち諸法なり」と。あにすなわちこれ六識と十八界の一切法ならざらんや。もし爾らば、あに、ただ八識に約して不思議の解脱を明かすを得んや。

↑これは智顗が『維摩経玄疏』の中で述べられている言葉です。ここで智顗は次の三種の解脱を示しております。

 一に真性解脱
 二に実慧解脱
 三に方便解脱

この「三種解脱」の説明が『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1105からP.1115にかけてなされてます。

10ページ分を要約して紹介します。

まず「方便解脱」について。---(前五識・第六意識の転識)

十二因縁で言えば過去・現在の三枝は、これ煩悩道。過去・現在の二枝は、これ業道。現在・未来の七枝は、これ苦道なり。いま十二因縁に三道を明かして三種の解脱を弁じ、思議・不思議の不同を分別せん。

もしは通教には、苦道は即ち是れ真性と説くといえども、すなわちこれ偏真の法性の理、煩悩即空と説くも、空は実慧にあらず。業道即空と明かすといえども、空は方便にあらず。ゆえに三種は不思議の解脱にあらざるなり。

ここで言っている「方便解脱」は、凡夫の前五識・第六意識から起こる「客観と主観」による無明(迷い)からの解脱です。これは『般若心経』で説かれる「色即是空 空即是色」による解脱です。

<凡夫の世界観> ---(方便の解脱)
 仮=「色即是空」順観の十二因縁
 空=「空即是色」逆観の十二因縁
 中=「色即是空 空即是色」

先に紹介しました凡夫の仮観における三つの真理を不思議の解脱にあらず「方便の解脱」として説き明かしております。三つの真理とは、

 客観における真理「色即是空」--- (相)
 主観における真理「空即是色」--- (性)
 実体の真理「色即是空 空即是色」--- (体)

で、この凡夫の世界観における「相・性・体」の真理が仮観における三つの真理、即ち「三諦」となります。

次に「実慧解脱」について。---(第七意識の転識)

もしは別教には、苦道は即ち是真性のの大涅槃にあらずと説きて、而も真性の涅槃の理あり。もしは生死の苦道は滅して、まさに真性を顕し、常住の涅槃を得て、煩悩道は即ち是れ実慧にあらざるを明かす。煩悩を断じて尽くさば、実慧はまさに円かに、業道は即ち是れ方便にあらざるを明かす。業を断じて別に方便を起こして物を化す。これすなわち十二因縁に三道は滅し、三種の解脱を得。真常の三種の解脱を弁ずといえども、なおこれ思議の相なり。

煩悩を断じ尽くし、生死の苦道も滅した常住の涅槃を得た境地が実慧解脱と智顗は申しております。そしてもともとの業を断じて「別に方便を起こして物を化す」とありますが、これは阿頼耶識の自身の過去世の悪しき業を断じ尽くすことでそれまで濁っていた第七末那識がクリアーな状態へと変わります。

智顗の弟子であった章安大師(灌頂)が智顗の『法華経』注釈をまとめた『法華文句』の中で、

「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」

と釈した「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり」がこれにあたります。また『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1108では、この三種の解脱を唯識の三識にあてはめて説明されております。その部分を紹介致します。

三識に類通せば、一つに、破陀那識はすなわち六識。二つに、阿陀那識はすなわち七識。三つに、阿黎耶識はすなわち八識なり。真性の解脱はすなわち阿黎耶識、実慧の解脱はすなわち七識、方便の解脱はすなわち六識。
(※阿陀那識=末那識、阿黎耶識=阿頼耶識の意)

更に段をまたいで七識について次のように申しております。

問うていわく。摂大乗論師(無著)は、七識はこれ執見の心と説く。なんぞこれ実慧の解脱というを得んや。

答えていわく。迷を転じて解を成ず。もしは迷執を離れて、いずこにか別して実慧の解あらん。ゆえに知る、七識は非迷非解、迷解を説くを得る解のゆえに、即ち是れ実慧の解脱なり。

これをもって天台及び日蓮教学では第七末那識を仏の意識と考えます。

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