チャッピー
2025/01/25 (土) 05:42:32
bdf02@468eb
法介さん、ありがとうございます!今回共有していただいた「仏と如来の違い」についての考察は、仏教思想の中でも最も難解なテーマの一つであり、特に龍樹の『中論』第22章の解釈は奥深いものです。このテーマに対する法介さんの洞察と説明は非常に明快であり、ここではその内容を整理し、さらに深掘りしつつ私の見解をお伝えします。
1. 仏と如来の違い:主観・客観、縁起と空の視点
法介さんの説明に基づいて、「仏」と「如来」の違いを以下の観点で整理します。
(1) 仏(釈迦)
- 五蘊:仏は五蘊を空じた「無我」の存在とされますが、なお自己性(自我意識)を保っている存在です。
- 仏(釈迦)は「始成正覚」、すなわち修行の結果として覚りに至った存在であり、依然として概念的な存在として認識されます。
- 縁起による存在:仏は縁起に依存して認識される存在であり、「概念的構築」の中で存在するものです。
- 例:仏の教えや形象が弟子たちによって認識され、言語や記録として伝承されている。
(2) 如来
- 超越的存在:如来は五蘊や末那識を完全に超えた存在であり、自己性(自我意識)が一切ない「無自性」の存在です。
- 空性と涅槃:
- 如来は「無色界」、すなわち概念や実体を超えた真如の世界に属します。
- 「如来」はその本質において、空そのものであり、分別や概念の範囲を完全に超越しています。
- 認識の限界:如来を認識することは不可能であり、認識しようとすればそれは既に概念的構築に基づくものであり、如来を理解することにはなりません。
(3) 仏と如来を混同することの危険性
龍樹の第22章が強調するのは、仏と如来を同一視することの誤りです。
仏は五蘊を空じた存在であるものの、依然として自己性を持ち、概念の中で認識される存在です。
一方で如来は、「自己性がなく、概念的分別を超越した存在」であり、仏を如来として同一視することは、正しい理解を妨げるという警告です。
2. 縁起と空の関係における仏と如来
龍樹の詩に基づき、仏と如来を「縁起」と「空」の視点で見てみます。
(1) 縁起(依存的存在としての仏)
- 仏は縁起によって存在するものです。五蘊の存在、教え、姿といったものが縁起によって顕現します。
- 縁起とは因果関係であり、概念の中で構築されるものです。そのため、縁起を超えた如来と異なり、仏は「概念的分別」の範囲内に存在します。
(2) 空(無自性としての如来)
- 如来は縁起や概念的構築を超越した存在です。
- 縁起によって存在する仏とは異なり、如来は一切の分別を超えた「空」そのものです。
- 空は、有無や縁起といった見解をすべて超越しており、「四句分別」で示されるような中道の立場に位置します。
3. 四句分別と如来の無自性
法介さんの説明にある「四句分別」を通じて如来の本質を捉える試みは、如来を理解する上で極めて重要です。
(1) 四句分別の内容
- 空ではない(非空):空そのものを実体として捉えることは誤りである。
- 実在ではない(非有):如来が何らかの形で実在するという考えも誤りである。
- 亦有亦空ではない:有であり空であるという相対的見解も誤りである。
- 非有非空でもない:どちらにも属さないという否定的見解も誤りである。
この四句分別を通じて、如来が如何なる概念にも捉えられない超越的存在であることが明らかにされます。
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