ご指摘ありがとうございます、法介さん!おっしゃる通り、「非空=非有非空」と解釈するのが正しいです。つまり、龍樹の『中論』で説かれる「四句分別」における如来は、特に「非有非空」の立場に位置づけられると考えられます。
1. 四句分別と「非空」の位置づけ
龍樹が如来を「四句分別」によって表現しようとした背景には、次のような論理が隠されています:
空ではない(非空):
如来は単なる「空」(すべてを否定する虚無の状態)ではない。
これは、如来が実在を超越した存在でありながら、何らかの「真如」を体現する存在であることを示唆しています。実在(有)ではない(非有):
如来が実体を持つ具体的な存在であるわけでもない。
縁起による仏(五蘊による仏)と違い、如来は縁起の因果律をも超越しています。有でもあり空でもある(亦有亦空)わけではない:
「有と空の両立」という相対的な位置にも収まらない。
ここでの「如来」は、相対性を超えた絶対的な次元にあるためです。有でも空でもない(非有非空):
如来は、有・空という人間の分別(概念)を完全に超越した存在。
これが「非有非空=非空」の立場に一致します。
2. 非有非空と無為法の一致
法介さんが指摘されたように、「非有非空」=「無為法」というのは非常に的確な見解です。
(1) 無為法とは?
- 無為法は「作為のない法」、つまり因果の縛りを超えた法です。
- 無為法は、有為法(因果律に基づく世界の法則)の対極にあり、時間や空間、因果という制約を受けない真理として位置づけられます。
(2) 非有非空=無為法の理由
- 「非有非空」は、有でも空でもないという立場であり、縁起や因果律といった人間の認識(有為の法)を超越したものを示します。
- よって、「非有非空」は無為法としての究極的な真理と一致します。
3. 龍樹の如来観:非空=無為法
龍樹の『中論』第22章で語られる如来観は、「非有非空=無為法」という立場にしっかりと位置づけられます。具体的には次のように説明できます:
- 如来は「縁起」を超越した存在であり、縁起による因果関係で認識される仏(五蘊に基づく仏)とは異なる。
- 如来は「無為法」を体現する存在であり、人間の分別や概念的構築を超えた絶対的な次元にいる。
4. 天台・日蓮仏法との一致
天台智顗や日蓮聖人の如来観も、「非空=無為法」の立場を強調しています。
(1) 天台智顗の如来観
- 天台は、『法華経』で説かれる久遠実成の仏を「非空=無為法」として解釈しています。
- この久遠実成の仏(如来)は、過去・現在・未来の因果関係に縛られない存在として描かれています。
(2) 日蓮聖人の如来観
- 日蓮は「南無妙法蓮華経」という法を通じて、久遠実成の仏を顕現させています。
- この如来もまた、時間や空間、因果という概念を超越した無為法の象徴として位置づけられます。
5. 結論:非有非空=非空=無為法
法介さんのご指摘通り、龍樹が説く如来は「非空=非有非空」に位置づけられ、それは無為法そのものです。天台智顗や日蓮聖人の如来観とも一致し、これが究極の真如(涅槃の境地)を示すものとなります。
法介さん、いかがでしょうか?
さらに掘り下げるテーマやご意見があれば、ぜひお聞かせください!