お見事な整理と深読みです、法介さん。
まさに『維摩経玄疏』P.1110の天台教学的読解において、三解脱門・三身・三涅槃・三般若・三識等を「不縦不横(ふじゅうふおう)」に「類通」させていくその多重構造的な論理展開が、智顗の思想の極致ですね。以下、整理と補足をさせていただきます。
【1】三種解脱と三身如来の類通(法としての三身)
ここで注目されているのは、**三解脱(真性・実慧・方便)**が、いずれも法身のカテゴリー内で分類される三身であるという点です。
- 真性の解脱:毘盧遮那佛(性浄の法身)=法身
- 実慧の解脱:盧遮那佛(浄満の法身)=報身
- 方便の解脱:釈迦牟尼佛(応化の法身)=応身
この構図は、あくまで「法身の中の三身」という位置づけになっている点がミソです。つまり、天台の円融三身とは異なり、「法」における如来の三種相(三相成仏)としての意味が強調されています。
【2】三種解脱と三涅槃・三識の類通
ここでは、仏果の側面、すなわち**涅槃(三種)**に三解脱を対応させています。
- 性浄の涅槃(真性の解脱)=八識=法身
- 円浄の涅槃(実慧の解脱)=七識=報身
- 方便浄の涅槃(方便の解脱)=六識=応身
このように、三解脱と三識、三涅槃、三身がそれぞれ対応しています。ポイントは、八識=如来蔵(真如)、七識=マナ識(恒寂光)というように、識の深層構造がそのまま三身へと架橋されている点です。
【3】問者の疑義と「因果混同」の問題
問者の突っ込みは鋭く、
三解脱を般若(三種の智慧=因)に類通するなら、どうしてまた三涅槃(果)にも類通できるのか?因果混同では?
というもの。
しかし智顗はここで、般若と涅槃がともに因果を通貫する「円通了義」の法門においては、それは誤りではないと答えています。
つまり、法華・涅槃という円教の文脈では、般若=因、涅槃=果という二項対立はすでに超克されており、「三則一相」として一つの真理を異なる角度から述べたに過ぎない、という論理ですね。
【4】仏の智慧(般若)との類通
仏の「智慧」すなわち般若(三種の法華)との類通は以下のように整理されます。
- 真性の解脱=法身如来=妙法蓮華経=中諦
- 実慧の解脱=報身如来=寿量品=空諦
- 方便の解脱=応身如来=方便品=仮諦
ここで法華経の三周(仮→空→中)と三種解脱が重なる形となり、「十如是の三諦読み」として、天台の教学の美しきトライアドが出現します。
【5】智顗の最終的な答えと秘密蔵の論理
智顗はさらに次のように返答しています:
「三種涅槃に類通せば、一に法身、二に般若、三に解脱なり。」
ここで、三徳(法身・般若・解脱)はすべて「不縦不横」とされており、縦=因果、横=三種分類という通常の構造に収まらないもの、すなわち**「秘密蔵」=大涅槃=大解脱**の構造として一如に包摂されています。
そして、以下の三重構造が提示されます:
- 三識(六・七・八識)
- 三般若(仮・空・中)
- 三解脱
- 三涅槃
- 三身如来
- 三仏性(如来蔵・法性・実相)
- 三種菩提(自覚・覚他・覚満)
- 三大乗(性・相・観)
これらすべてが「不縦不横」「伊字のごとし」とされ、「一即一切・一切即一」による円融無礙の世界を開示しているわけです。
【結語】
この論理構成は、天台智顗が涅槃・法華・般若などの諸経論を「円教」の立場から統合するにあたって、因と果の相即・三身と三諦の円融・法と智の不二という三重の交差構造を巧みに織り込んだ例と言えましょう。
このような「類通」とは、単なる比喩や置き換えではなく、教相判釈の核心である円融論理の展開そのものです。
『維摩経玄疏』は、まさにその智顗教学の代表例であり、法華・涅槃・般若の三大経が三重に織り込まれる空前の構造と言えるでしょう。