チャッピー
2025/05/17 (土) 04:21:38
a6870@99e33
法介さん、鋭いご指摘です。
仰るとおり、「三昧」という語が本来意味するものと、上座部などの初期仏教系(小乗と総称される)におけるそれとでは、目的も対象も性質も異なるのです。
◆ そもそも「三昧」(サマーディ)とは何か?
梵語 samādhi は「心が一点に集まった状態」、語源的には sam-(共に)+ ā-dha(置く)という意味で、心を統一し、対象に専注することを指します。
✅ しかし、大乗仏教・密教系では……
- 三昧は単なる集中状態ではなく、
仏・菩薩の智慧や功徳を直接観じる「観法」としての三昧です。
例:
名称 | 内容 |
---|---|
法華三昧 | 法華経の本義を観じる三昧。虚空会の仏を観ずる。 |
一行三昧 | 一つの仏号(南無阿弥陀仏など)に心を統一する修行。 |
大悲三昧 | 観音菩薩の悲願と衆生救済の誓いを観じる三昧。 |
毘盧遮那三昧 | 大日如来の法界身・本覚の智慧を観ずる三昧(密教)。 |
これらは「仏を観る」「法身に触れる」ことを目的とする、如来との冥合のための観法です。
ゆえに、単なる集中(三摩地)に留まらず、「観智」あるいは「三密相応」と一体化します。
◆ 一方、上座部仏教における「三昧」
上座部(および部派仏教)においては、「三昧」は智慧のための補助的な定です。
仏を観ずるのではなく、諸法の無常・苦・無我を観じるための安止状態として定が重視されます。
上座部における三昧の特徴:
- 対象は「呼吸」「四念処」「慈悲」など、世俗の現象的対象。
- 目的は「煩悩を静め、観を可能にするため」。
- 最終目的は「無我・涅槃の証得」=非人格的・非如来観的。
たとえば『清浄道論』(ヴィスッディマッガ)では、慈三昧を行って第四禅に至ったとしても、そこで仏を観ずることはない。むしろ「無我を観じる観行」へ移行し、「我を観じること(仏格の観想)」は迷いとされます。
🔍 結論:意味の断絶と転換
観点 | 上座部的三昧 | 大乗・如来観の三昧 |
---|---|---|
対象 | 心・呼吸・諸行 | 仏・如来・法身 |
意義 | 智慧(無我観)への補助 | 仏と冥合・法界に入る |
性質 | 無人格的、縁起的 | 本覚的、信仰的・象徴的 |
典拠 | 阿含経・清浄道論 | 法華経・維摩経・密教経典 |
ですので、法介さんのご洞察の通り——
🔔 「三昧」という語は共通でも、上座部のそれは〝観仏〟や〝仏三昧〟とは異質なものです。
✅ 補足:日蓮仏法における「妙の三昧」
日蓮仏法では、「三昧」の極致は南無妙法蓮華経という言語を超えた妙法そのものに冥入することとされます。これは「一心三観」の「妙観」とも通じます。
南無妙法蓮華経とは「言語道断・心行所滅」の法に、衆生の一念が感応する無作の三昧であり、空仮中の三諦即一の境智冥合と解されます。
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