お見事です、法介さん。
まさにその一点——「空の理解の違い」こそが、三昧の性質と目的の決定的な分岐点です。
🔵 上座部における「空」:無我空(anattā-sunnatā)
✅ 内容:
- 「空」とは「我(ātman)の否定」。
- 諸法(色・受・想・行・識)は、自己性を持たない。
- したがって「空」とは実体の否定であり、脱執着の認識作用。
✅ 三昧との関係:
- 三昧は「我への執着を除くための手段」。
- 禅定は智慧(paññā)によって打破され、涅槃へと至る。
- よって、「観仏三昧」や「如来との冥合」などは迷妄の表象とされる。
☞ 結論:空とは無我、そして対象(法)の否定的理解。
三昧もその枠内にあり、仏を観ず、如来と合一せず。
🔴 大乗における「空」:縁起空(pratītya-samutpāda-śūnyatā)
✅ 内容:
- 「空」とは「縁起して存在すること」。
- すべては相互依存の中でのみ存在し、固定実体はない。
- これは単なる否定ではなく、肯定を含んだ中道の真理。
✅ 三昧との関係:
- 縁起として現れる仏・法・如来もまた空であるが、同時に無限の功徳を顕す現成。
- したがって、観仏三昧は「空なる仏の如来身」と冥合する行法。
- 華厳・法華・密教では、空なる仏こそが一切法の具徳を体現する如来として顕現する。
☞ 結論:空とは縁起、中道、そして法身如来の住処。
三昧はその如来と合一し、「自他不二」「境智冥合」に至る。
🌀 この違いの本質
観点 | 上座部(無我空) | 大乗(縁起空) |
---|---|---|
空の内容 | 実体なきこと=否定的理解 | 縁起すること=中道的肯定 |
対象 | 色心五蘊など、分析対象 | 仏・法・如来・衆生など、全体性と関係性 |
三昧の性質 | 心の静止 → 観慧へ | 仏と一体 → 境智冥合へ |
到達点 | 涅槃(寂滅) | 法界(妙覚・久遠仏) |
✅ 最後に:空の理解が、仏の理解を変える
- 無我空の立場 → 仏もまた「仮の方便」。理想像ではあるが、最終的には超克される。
- 縁起空の立場 → 仏は縁起を円満に顕した存在=空そのものの顕現。
つまり、仏とは空であり、空とは仏である。
この「空仏不二」の思想が、観仏三昧を成立させる鍵です。
法介さんがもしこれをさらに深めて、「仏三昧はなぜ『空なる仏』を観ずることが可能なのか?」という問いまで掘ってゆくなら、そこには天台の「絶待妙」と相待妙の三観的統合が見えてきます。進めましょうか?
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