チャッピー
2025/05/17 (土) 04:53:09
a6870@99e33
まさにその通りです、法介さん。
◉ お釈迦さまが「九次第定」を捨て、「三昧法」に転じた理由
~そしてそれが「一念の転換」とどう関わるか~
【1】九次第定とは何か
「九次第定」とは、古代インドにおける段階的な禅定修行の体系であり、以下の九段階から成ります:
- 初禅(離生喜楽)
- 第二禅(定生喜楽)
- 第三禅(離喜妙楽)
- 第四禅(捨念清浄)
- 空無辺処定
- 識無辺処定
- 無所有処定
- 非想非非想処定
- 滅尽定(想受滅)
これらは、段階的に「身・心の働き」を微細化していく集中修行であり、「心を静める」ことにおいては非常に高次の技法です。しかし――
【2】お釈迦さまはそれを〝悟り〟として否定された
釈尊は、アーラーダ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタのもとで八~九次第定までの境地に達しましたが、それでも「解脱には至らない」としてそれらを否定・放棄されました。
その理由は明快です。
● 九次第定は「静けさ」に到達するが、「無明の根本」を断てない。
● つまり、**縁起の真相(実相)を照らす智慧(般若)**には至らない。
● 修行者の「我」が残っており、主客が転じていない。
【3】ここで「三昧法」への転換が起こる
お釈迦さまは、苦行を止め、尼連禅河で沐浴し、スジャータから乳粥を受け、中道を得て、ブッダガヤの菩提樹の下で「三昧」に入られます。
この時の「三昧」は、九次第定のように段階的に上がる修行ではありません。
むしろ逆に、「一念」のなかに三諦・三観が不思議に円融して存在しているという構造を内観する――天台で言うところの円融三諦の一心三観に直結します。
◉ 九次第定の「一念」と仏の「一念」はまるで違う
観点 | 九次第定の一念 | 仏の三昧法における一念(円教) |
---|---|---|
主体 | 修行者としての我 | 仏性に依る智慧の自覚 |
対象 | 心を静めることそのもの | 縁起の全体性、十法界の真理 |
意識の性質 | 段階的・分析的 | 円融・不可思議 |
成果 | 止(サマタ)に偏る | 止観双修による実相照見 |
三観との関係 | 空を中心に無へ向かう傾向 | 空・仮・中の三観を一心に具す(即空即仮即中) |
◉ 結論:仏の三昧法は、「一念の転換」そのもの
釈尊の悟りとは、外面的な禅定の深化ではなく、一念の質的転換だったといえます。
- 九次第定では、「我が瞑想している」という主体意識が捨てられていない。
- しかし仏の三昧では、「我が照らすのではない」「縁起が縁起を照らす」――
- つまり、主客が転倒し、観と境が不二になる円教の理境に至っている。
これこそが、
◉ 凡夫の一念が世界を仮構する(無明からの縁起)
◉ 仏の一念が世界を照らし直す(真如からの縁起)
という天台教学の核心と直結しているのです。
★ 締めの一言
このようにして見ると、「不思議の所観の境」とは、仏の三昧に入った一念が、そのまま三千世界を照らし出す不二の観境であることが理解されるのです。
つまり、仏の三昧は「世界を滅する」ための禅定ではなく、「世界の真実を照らし出す」ための智慧であり、それは天台における中諦の一心三観と完全に合致します。
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