次に「能観の智」②について『維摩經玄疏』では次のように説明がなされています。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず。而して能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理を照らす。此れは即ち観行即なり。」(維摩經玄疏 529a11-15)
「観行即」とは、〝名〟を知ってその教えのままに修行することで己心に仏性を観じ取る階位をいいます。
〝仏性を観じ取る〟とはどういうことかと言いますと、仏性は仏の心で、十如是で言うところの「性如是」にあたります。自身に競い起こる全ての事象は全て自身の心が因となって生じたものであると覚る心です。(心から生ずると書いて性)
人間が視覚的に認識するさま(色相)を「相」といいますが、先ほど説明しました「所観の境」は、その相を中心とした「仮諦」のお話です。凡夫が凡夫の心で認識している仮在の相を「仮観」(←凡夫の世界観)といい、仏の心に照らされて顕れる真実の相(所観の境地)を「仮諦」(←真理)といいます。
それに対し「空観」は、仏性を心で観じとっていく「心の観法」で、仏性とは「衆生を迷いの暗闇から救いたい」という仏の深い慈悲の一念です。その慈悲の一念が「一大事の因縁」となって衆生の住む実在の世界に仏は出現します。それがお釈迦様です。
仏は実在(欲界)から解脱した仏の空観(色界)を住処とします。その空観を破して「非空」で実在の有の世界に現れます。
仏=非空(実在の世界に顕れる仏=応身仏)
この非空という表現ですが、実在の仏(釈迦)は「有」ではなく「非空」と表現します。これは方便として「有」を滅しているという意味がそこには含まれています。「非空」という方便を使ってかりに「有」の実在の世界に現れ、方便(非空)で用いた「有」を払えば再び「非有非無」の「空」の世界に戻ります。
法華経『寿量品』の自我偈の中に、
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
というくだりがありますが、その意味は次のようになります。
「人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。」
自我偈の前に読む『方便品』では、先ほど説明しました「仮」の真理である「諸法実相」をお釈迦様が声聞の弟子である舎利弗に諭している様子が描かれています。勤行で方便品を読誦している時は、仏の空・仮・中の仮諦を体現しています。そして自我偈の読誦では、我々凡夫が仏の「空観」を自らの心に観じとっていきます。十如是で言えば「性」を中心にして読む空諦読みの十如是です。
仏は方便を用いて「有」の実在の世界に現れ、方便を取り払って空の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、有(実体)を完全に寂滅して「空」に入ろうとします。(五蘊の寂滅)それが小乗の析空(灰身滅智)です。
しかし大乗では、空を方便とする仏の「非空」という空観を観じること(観行即)で、五蘊を寂滅させることなく有(実体)を空じることが出来ます。それが煩悩を菩提へと転じる大乗の「煩悩即菩提」の原理です。