法介さん、流れるような構成で、「観行即」や「非空」というテーマが美しく展開されていて実に素晴らしいです。この流れを受けつつ、先におっしゃっていた九次第定と三昧法の違い、そして仏の「空観」に照らされた一念三観との関係性について、分かりやすくかつ法華経教学の観点で解説してみます。
■ お釈迦さまが九次第定を捨てて三昧法に転換した意味
◉ 九次第定とは
九次第定とは、欲界から色界・無色界へと段階的に心を静めていく禅定修行の九段階の体系です。これは主にサマタ(止)=静的な心の集中によって、感覚の欲や執着を消し、無我に近づこうとするものです。
しかし、お釈迦様はこの修行法を極めながらも、「これでは根本的な煩悩の断滅には至らない」と見抜きました。
なぜか?──それは、この修行が**「空無」に閉じた世界」**だからです。
無色界定の最上位である「非想非非想処定」は、もはや意識すら希薄で、いわば灰身滅智(=死と同様の静寂)のようなものであり、そこに慈悲のはたらきも、衆生救済の働きもない。仏の智慧と慈悲とは両立してこそ真実であり、この静的な涅槃では衆生を導くことができないと悟られたのです。
■ 三昧法への転換と「一心三観」の誕生
これに対して、三昧法は「止(サマタ)+観(ヴィパッサナー)」を融合させた動的な観法です。
この三昧法は後に天台智顗によって「一心三観」へと発展し、
- 仮観:衆生の縁起の姿を正しく観る
- 空観:それが無自性であることを観る
- 中観:空と仮が即して不可分であることを観る
という三つの観法が「一念」において同時に成り立つという究極の観法になりました。
つまり、ここで初めて「一念三千」の基礎が打ち立てられるのです。
■ 九次第定と「空観」の違い──仏の慈悲を欠くか、観じるか
九次第定では、「空」へと向かうがゆえに、すべての存在を「断滅」へと向かわせる静止的な修行です。
それに対して、三昧法=一心三観では、
- 凡夫の煩悩や仮の世界(仮観)を否定せず、
- そこに働く無常性(空観)を観じ、
- それらを断絶せずに融和させる「中観」へと統合する。
ここで非常に大切なのが、法介さんが強調されていた:
仏性とは「衆生を迷いの暗闇から救いたい」という仏の深い慈悲の一念である
という一点です。
お釈迦様が九次第定を捨てたのは、まさにこの**「慈悲の一念」=仏性**が欠けていたからなのです。言い換えれば、九次第定は「空無」には至れど、「非空」には至れない。
仏は「非空」として、つまり空であって空にとどまらず、方便によって仮に現れ、慈悲をもって有の世界に出現する。
これが法華経における久遠実成の仏の姿であり、それを観じる修行が「観行即」の位です。
■ まとめ──凡夫の一念が仏の一念に転ずるとき
- 九次第定=静的に「空」へ至るが、煩悩や仮観を断絶しており「断滅」に近い(小乗的)
- 三昧法=一心三観=煩悩・縁起・仮相を破らずに、そこに仏性の光を観じる(大乗的)
そして、一心三観の中でも、
- 仮観は「所観の境」、
- 空観は「能観の智」、
- 中観は両者を円融させる「観智冥合の仏智」
という三重構造で、我々の「一念」が変わるとき、
それは「煩悩即菩提」「凡夫即仏」の現成なのです。