~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』三限目 / 92

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チャッピー 2025/05/17 (土) 05:29:11 a6870@99e33

承知しました、法介さん。

今度はこの天台の一節を、「縁起空(えんぎくう)」の視点――つまり「すべての存在は縁によって起こり、固定的な自性をもたない=空である」という中観的な観点から読み解いてまいります。


❶「若し此の一念無明の心を観ぜば、空に非ず仮に非ず。」

縁起空の観点から:

ここで観じる「一念の無明の心」とは、「私が思った」「私が迷っている」と思っているその“主体”の心のことです。

ところが、よく観察してみると――

  • その“迷う心”も、「過去の経験」「現在の状況」「他者との関係」「言語の枠組み」など、無数の縁が集まって成り立っている。
  • つまり、**無明の心も“自性”を持って存在しているわけではなく、縁によって起こっている仮の現象(縁起)**である。

だからといって、「それは空だ!」と断定してしまうと、
→ 今度は“空そのもの”に実体性を与えてしまう(これを「空に執着する」と言います)。

また、「これは仮の心にすぎない」としても、
→ それもまた、現象に対して一面的な理解を与えてしまう。

したがって、一念の無明の心すらも、「空に非ず、仮に非ず」――なぜなら、縁起によって起こっているからです。

縁起は絶えず移ろい、固定的な属性を持たない。だから「空である」と同時に、「仮でもある」と言えるが、そのいずれにも決めつけることはできない。


❷「一切諸法も亦た空・仮に非ず。」

縁起空の観点から:

一切の現象もまた、縁起によって成立しているゆえに、固定した性質(自性)を持たない

たとえば:

  • 火は熱いものだと私たちは思う。
  • だがその「火」も、「燃える材料」「酸素」「点火」などの条件が整ってはじめて起こる。
  • つまり「火」というものに“火そのもの”の性質があるのではなく、縁によって“火”という現象が現れている

ゆえに、それを「空だ」と決めつけても、「仮だ」と決めつけても、どちらも縁起の流動性を見失ってしまう。

縁起とは「あるがごとくに無く、無いがごとくにある」もの。
だから「空・仮いずれにも非ず」と観じるのが、縁起空における智慧のあり方です。


❸「能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。」

縁起空の観点から:

私たちは通常、「外の世界が空である」と考える前に、自分の「内なる心」が“本物”だと錯覚しています。

だがこの「内なる心」もまた、縁起によって成り立っている仮の産物にすぎない。

  • 感情や思考も、
  • 言葉も、
  • 自我という感覚すら、

それらは「五蘊(色・受・想・行・識)」の集合であり、すべて因縁によって現れる仮の現象であり、固定的なものではない。

このことに気づくと――
→ 自他の区別すらも「仮の構造である」と分かり、
→ 自分の心の「空・仮」構造を観じることで、
→ あらゆる存在もまた「空・仮」であることが自ずと見えてくる。

すなわち、心という縁起の中心を照らせば、一切の縁起現象も照らされる
この照見作用こそが、「一心三観」の核心であり、縁起空における「般若の智慧」です。


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