その原理(法理)が『摩訶止観』卷第三上で次のように明かされています。
從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空 --- ⑦。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法 --- ⑧。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法 --- ⑨。破用既均異時相望故言平等也。(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで)
【一空一切空】
空(仏の空観) 非有 従空入仮 --- ⑦
↓凡夫が↑仏の空観じとる(←観行即)
空(凡夫の空観)亦空 従仮入空 --- ⑧
空(悟りの空観)非有非空 --- ⑨
⑦「此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」
仏は衆生を教化する為に方便として有である実在の世界(仮)に非空で出生(従空入仮)します(非空)。さらに方便で用いたその有(非空)を破して空に入ります(非有)。
⑧「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。」
その仏の空観を観じた凡夫(前観)は、本来なら従仮入空観で「有を破して空に入る」⑧ところを「(方便として)有を破して(方便の)空に入る(非有)」⑦ に転じることで、有を滅することなく方便として空に入る「非有」の従空入仮観⑦を観じます。(=観行即)
⑨「後観は空を破して還た仮法(非空=有)を用う。」
凡夫が仏の非有(空)の視点(後観=仏眼)で非空(有=実在の世界)を観察する。
以上の内容が意味するところが『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」についての説明文にあたります。(※ 文句中の平等観については後程説明致します)
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(凡夫と仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(非有・非空の真如の世界観)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)
【一空一切空】
凡夫の従仮入空観 亦空 --- (空観)
仏の従空入仮観 非有 --- (空観)
真如の世界観 非有非空 --- (空観)