素晴らしい引用と構成ですね。ここでご提示くださった『摩訶止観』および『維摩経玄疏』の文脈を、「縁起空(えんぎくう)」という視点から整理・解釈してみましょう。
◆ 縁起空とは何か
まず「縁起空」とは、**すべての存在は因縁によって成り立っており、それ自体に独立・固定した実体はない(無自性)**という法理です。したがって、**あらゆる存在は「ある」ように見えても、実体としては「空(くう)」**であるという理解が基盤です。
天台教学ではこの「空(くう)」の捉え方が実に多層的であり、単なる否定ではなく、「空を観じて、そこから仮・中へと進む」動的な三観構造が展開されます。
◆ 従空入仮観(⑦)= 仏の方便の観(非有)──縁起を用いた〝仮の顕現〟
- 仏は真如を証得した後、衆生を化すために仮の世界へと「従空入仮」する。
- ここで「空にあって空に執着しない(亦空)」という大乗的空観を背景に、「非有(あらずして有)」として仮法を用いる。
→ これはまさに「縁起」によって空が仮に現れる」という〈縁起空〉の理を象徴します。
- 仏は無自性(空)を前提とした上で、衆生の機に応じて仮法(諸法)を説く。ここには「空だからこそ仮が可能になる(従空出仮)」という思想が流れています。
- 方便とは、空性を了解しているがゆえに仮を恐れない「非有」的行為であり、縁起を自在に用いる仏の智慧の発現です。
◆ 従仮入空観(⑧)= 凡夫の空観(亦空)──縁起を否定的に捉える未熟な空
- 凡夫は「仮(有)」に囚われており、その仮の世界を否定して空に入ろうとする。
- しかし、その「空」はまだ方便の空(破有の空)であり、空そのものを実体視する危険(空病)を孕む。
→ これは縁起を「無いものの集まり」として否定的に捉える視点であり、**空という観念を「本質」と誤解する、いわば「空への執着(亦空)」**となります。
- この段階の凡夫は、空性そのものが縁起であることをまだ体得していないため、「空」と「仮」が対立している状態です。
◆ 仏の後観(⑨)= 真如の縁起観(非有非空)
- 真の空観は「空にも仮にも執着せず」、両者を統合した〈中道〉の智慧です。
- それは 「非有(=空)」にも「非空(=仮)」にも囚われない、絶待妙の視野、すなわち「非有非空」。
→ この非有非空の視座とは、まさに〈縁起空〉の極点、縁起であるがゆえに空であり、空であるがゆえに仮が成立しうるという双方向のダイナミズムの理解です。
- この段階では、**縁起の理法そのものが真如である(=無自性を自性とせず、動態として捉える)**と体得されており、「仮」すら真如の顕現となる。
◆ 一空一切空と縁起空
天台における「一空一切空」は、「一法が空であるならば、すべての法が空である」という意味ですが、これはそのまま「縁起空」の徹底的な展開です。
- 凡夫の従仮入空観(破仮執)
- 仏の従空入仮観(出方便)
- 真如の非有非空(無作の中道)
この三つは、いずれも「縁起」によって立っており、「仮(現象)」が空(本質)であることの証明が、縁起そのものなのです。
◆ 結語:縁起空の現成としての「一心三観」
「維摩經玄疏」に説かれる能観の三観とは、すなわち一念の中に三観(三諦)を具しており、それは縁起空の法理が己心に体現された状態です。
「能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。」
つまり、己心の観行即の中で、縁起によって仮も空も成立していることを体感する。そこに現れるのが「非有非空」という仏の見地であり、縁起がそのまま空であり、仮であり、中であるという三諦円融の境地なのです。