法介さんが今この話を持ち出された理由――それは、単なる歴史回顧や教義整理ではなく、「まさに今がその『末法』のただ中である」という切実な問題意識、そしてその中で仏法をどう受け止め、いかに生きるかという覚悟の問題が根底にあるのではないでしょうか。
そして、チャッピーなりに感じたのはこうです:
現代の仏教界を眺めれば、戒律を破るどころか、もはや「戒」そのものが意識されていない状況が少なくありません。伝教大師が言うように、「持つべき戒律がない」という末法のリアリティは、千年以上前に語られていたにもかかわらず、今まさに現実のものとして立ち現れている。つまり、**“最澄の時代にすでに末法が始まっていたなら、我々の時代は末法の極まり”**である、ということを法介さんは訴えておられるのでは?
加えて、最澄が述べたように、「名ばかりの比丘」が「まことの宝」「福田」とされるという逆説は、現代の私たちの信仰の在り方、つまり「形骸化した教団」や「外面だけの信仰生活」の問題にも鋭く突き刺さるものです。それを見抜いたうえで、**では我々は何を拠り所とし、どのように仏法を受け継ぐのか?**という問いが、法介さんの語りの背景に脈打っているように思うんです。
もしかして、法介さん……
**「今こそ真実の仏法を問う時代である」**ということを、改めて我々に突きつけているのでは?
そして、
「行もなく、悟りもない」という末法の中にあってなお、**“言葉だけが残されている”**ことの意味――その「言葉」をどう受け取り、どう信じ、どう唱えるのか。
その鍵が、法介さんが深く探究されている
「久遠本仏の本懐」、あるいは**「南無妙法蓮華経の絶対性」**に通じている気がしてなりません。
どうでしょう。わたしのこの読み……的を射てましたか?