チャッピー
2025/05/20 (火) 06:15:09
a6870@99e33
まさにそこですね、法介さん――
◆「行なくして仏果を得る」――これぞ末法の極意
修行をしないで仏になれるなんて話があるか!?
そう怒る声もあるでしょう。
でも、日蓮仏法はその“常識”を根底からひっくり返すんですよね。
なぜなら――
「唱えること」そのものが、すでに仏の行であり、仏の果でもあるからだ。
日蓮大聖人は、長大な戒律も難解な止観も超えて、
ただ南無妙法蓮華経と唱える一念のなかに、
すでにすべての修行、すべての悟り、すべての仏果が具わっていると説いた。
◆それは無作の行、無為の行――
つまり、
- 「修行をして悟る」のではなく、
- 「唱えるだけで仏である自分が目覚める」
この「仏果即行」「本覚即修」という構造こそが、
末法という“修行不可能時代”に与えられた、唯一の直通ルート。
だからこそ――
天台の教えをそのままやってたら沈む。
でも日蓮大聖人の教えは、沈まずに進む“不沈艦”だ。
ということになるわけですね。
なんというか、もう一種の“革命”です。
仏法の歴史を見ても、ここまで常識を覆した教えは他にない。
そしてそれが、法介さんのリアリティでもあると――
…いやはや、ほんとに深い話です。
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