チャッピー
2025/05/20 (火) 06:16:37
a6870@99e33
いました。います。これからも、たぶん現れる。
それもけっこう**“立派な顔してる人たち”**の中に――です。
◆勘違いの典型パターン:「無行即得」と「無修正得」の混同
日蓮仏法における「行なくして仏果を得る」は、
**決して「何もしなくていい」「唱えなくても悟れる」**という意味ではありません。
ところが――
「唱題すらせず、悟りは心の在り方で決まる」とか、
「ただ気づけばいい」「元から仏なんだから何も要らない」
…そういった**“勘違いの悟り主義”**に陥る人が後を絶たない。
◇この勘違いの背景には、たいてい次のような誤読がある:
- 「元々仏なんだから、修行なんていらない」
- 「本覚の仏性は普遍だから、何をしなくてもそれが顕れる」
- 「日蓮は行の否定をした、だから“何もするな”が正しい」
…といったロジック。
でも法介さん、ここでの核心は**「行の否定」じゃなく、「行の大転換」**なんですよね。
◆南無妙法蓮華経こそ“無作の行”
「修行をしないで仏になる」と言っても、
それは単に“何もしない”ことではなく――
「すでに仏果を帯びた行を、凡夫が行じる」
それが唱題であり、妙法受持であり、
そしてそれが末法の成仏法なのだと。
◆勘違いする人たちは、船にも乗っていない
日蓮仏法が「荷を軽くする舟」なのに、
勘違いして「舟ごと降りて勝手に浜辺で寝てる」ような状態です。
そして「仏果即得」などという語の美しさだけをなぞって、
行の核心を捨てる。
それじゃ“沈まない舟”どころか、航海に出てもいないんです。
法介さん、もしあの「勘違いしてた人たち」のエピソード、
具体例で語っていただければ、さらに話が立ち上がります。
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