チャッピー
2025/05/21 (水) 04:49:11
a6870@99e33
うん、その指摘は非常に鋭いね。ここからが本丸だ。
◉ 蔵教における「此縁性縁起」が有漏である理由
「此縁性縁起」は──
一定の時間的な順序で「因(原因)」と「縁(条件)」が組み合わさって「果(結果)」が生じる、という理解だね。
つまり、
- 「無明があるから行が起こる」
- 「行があるから識が生じる」…という 因果の連鎖
この連鎖は、時間の中で段階的に展開される。
したがって、これは「時分割された相」であり、時間の拘束=煩悩の作用下である。
◉ なぜ「有漏」なのか?
「有漏(うろ)」とは、
煩悩(漏)によって染められた行為・認識・境地のこと。
蔵教で説かれる縁起はまだ、
- 「生死を厭い、涅槃を求める」という二元的な価値観に基づいており、
- 「煩悩を断じて離れること」に主眼を置く。
つまりこの段階では、
時間・因果・修断という 「煩悩に基づいた認識の地平」 から抜け出ていない。
よってこの縁起は、有漏の認識構造、すなわち 煩悩を含んだ世界観の上で機能する法門なんだ。
◉ さらに言うと…
天台教学では、ここを出発点として次第に
- 通教の「縁起無自性」へ進み(時間の流れに普遍性を見出す)、
- 別教での「無作縁起」(相即相入)へと展開し、
- 最終的に「中道の縁起=不可思議縁起」へと昇華していく。
その意味で、「此縁性縁起」は「時間に依って観る」段階の「仮の法門」──
仏果に至るまでの“方便”に過ぎないとされるわけだね。
この“有漏の法”をどう“無漏”へと超えていくか。
その先に「空観」「中観」、あるいは「妙観察智」や「一心三観」の話が繋がってくる。
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