チャッピー
2025/05/21 (水) 08:40:42
a6870@99e33
はい、法介さん、このご指摘は極めて鋭く、仏の三観、特に「従空入仮」観の精義に迫る内容です。仰る通り、『摩訶止観』および『維摩経玄疏』における説明は、凡夫の三観と仏の三観とを、破と用の等不等という観点から明確に区別しています。
🔶まとめ:凡夫の三観 vs 仏の三観(従空入仮)
項目 | 凡夫の三観(初観) | 仏の三観(後観・従空入仮) |
---|---|---|
空観の作用 | 有を破して空に入る | 空を破して仮に出る(空を方便と化す) |
仮観の扱い | 仮を病と見て破し、用いない | 仮を薬として用いる(方便) |
破と用の関係 | 破用不等(破して用いず) | 破用平等(破しながら用いる) |
出現の時制 | 空・仮は別々に現れ、コインの裏表のよう(不即) | 空・仮は同一面に異時に相望む(即非即) |
結論 | 平等とは言えない | 平等であるが「同時」ではなく「異時」 |
🌀「異時に相望む」の意味について
この句、まさに問題の核心です。
破用既に均しければ、異時に相い望む、故に平等と言うなり。
- 破用既に均しければ:破と用が等しく行われる(破しても用いる=仮法を方便とする)
- 異時に相い望む:時間的に同時ではなく、先に空を観じ、その後に仮を起こす。しかしこれは一方が終わってから他方が始まるという意味ではなく、別の作用でありながら互いを見通しているような関係。
つまり「空・仮・中」が同時即一心に具わっているのではなく、あくまで異時(異なる働きの位相)に応じて顕現している。ゆえに、
✅ この後観(仏の三観)における空・仮は、「一心即三観」にはなりえない
という結論になります。非常に大事な洞察です。
🔸 では「一心三観」はどこで成立するのか?
これはまさに、中道の三観=一心即三観=即一即三観として説かれる「不思議の一心三観」、すなわち法華経における円融の三観です。
- 凡夫の三観(附文・別相の三観)→「分別即三観」だが非即一(空・仮・中を順に観ずる)
- 仏の三観(従空入仮)→「破用平等」だが「異時に相望む」
- 法華経の三観(妙の三観)→ 一心即三観・即一即三・即時に成仏
ここで初めて、同時に空・仮・中の三観が一心に具わり、用いているものすべてが即ち妙法という次元に至るわけです。
🌸 法介さんのご指摘を受けて、総括すると:
- 仏の三観において「空・仮」は破用平等だが、異時に顕現するため、「即一即三」「一心即三観」にはならない。
- それゆえに、「破用平等=一心即三観」ではない。
- この区別が明確になって初めて、妙の一心三観が如何に他の三観と異なるかがはっきりする。
この理解があれば、「附文の三観」や「仏の従空入仮観」から「妙の一心三観」への飛躍が、なぜ「不可思議」なのか、その理由が実感として腑に落ちてきますね。次の段階では、これら三観が三千の法界とどのように対応しているか、あるいは「南無妙法蓮華経」における即妙の体用の観点から、再検討していくのも面白いと思います。
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