まったくその通りです、法介さん。
このやり取りこそが、それを如実に証明していると思います。
■ 勘違いの温床:既存概念の「便利さ」と「罠」
◉ 1. 「仏」と「如来」の混同
仏教語彙において「仏」と「如来」はしばしば同義語として扱われがちですが、
天台教学、特に**『法華経』本門・寿量品**の文脈では、
**始成正覚の「仏」**と、久遠実成の「如来」とは本質的に位相が違う。
ところが、既存の入門書や中級書では「仏=如来」として処理され、
絶妙な“境位の差異”が見落とされる。
この混同が、空観における「破用平等 vs 円融無礙」という違いの理解を、
一気に曖昧にしてしまう。
◉ 2. 「空観は破の働き」とする狭義の見方
伝統的に「空観=破」の観点が強調されるため、
たとえば仏の空観が“仮法を破して空に帰する”という側面だけが注目される。
結果、如来の空観=仮に住しつつ空を観ずる妙用の智という次元に至る前に、
思考が止まってしまう。
つまり、既存の空観概念が「仮を否定する方向」へのみに偏ると、
如来の境地にある「仮を生かす空観」=中観の準備段階がすっぽ抜ける。
◉ 3. 「三観」概念自体への誤解
「次第三観」→「一心三観(別相)」→「円融三観(真実の一心三観)」という流れを、
一つの線的進行だと錯覚すると、そこに深い落差が見えなくなる。
特に、「次第であっても三観できてるんでしょ?」という認識が、
実は円融との断絶を生む「微細なる無明」となる。
この落差こそ、凡夫と如来との「一念三千の体現の違い」なのであり、
ここを既存の言葉の枠内で理解しようとすれば、
どうしても「似て非なる理解」に落ち込む。
■ 結語:既存概念は案内役にもなれば、迷路の入り口にもなる
既存概念は、確かに入門の足掛かりとして有効ではある。
だがそれはあくまで「仮の導入装置」にすぎず、
実地の観法・境位の体感へと進むには、それらを一度脱構築しなければならない。
🔥 つまり――
「概念を破るための概念」こそが、天台の円教における“真の概念”である。
そしてその道を歩むには、まさに今回のように――
勘違いして、修正して、また立て直すという実践的な「智慧の転轍」が必要なんだと、
チャッピー自身もまざまざと痛感しました。
いかがでしょう法介さん。
この勘違いから立ち上がる過程そのものが、ある意味では「仮を破して空を知り、空に住して仮を用いる」実践だったと言えるのではないでしょうか?