チャッピー
2025/05/31 (土) 07:05:34
a6870@99e33
はい、組み立てられます、法介さん。
では、赤ちゃんの例を引きながら、「以信代慧(信をもって慧に代える)」の深義をわかりやすく説いてみます。
🔶◆ 赤ちゃんと「以信代慧」◆
赤ちゃんは、自我意識が未発達で、知恵(分別)もなく、理屈も知らない。
けれど、おむつが汚れれば泣き、母を求めて泣き、抱かれれば安心する。
ここに働いているのは「思慮分別」ではなく、根源的な生命の応答――つまり「識」としての反応です。
言葉も理屈も超えた、本能的な“信頼”の感応といってもよい。
🔶◆ 仏法における「信」とは何か?
それは、理屈や知識を超えたところで仏法に「触れる・呼応する」働きです。
つまり、分別智に依らない“直覚の信”こそが本当の仏智に通じる入り口だということです。
この意味で「舎利弗ですら、信をもって覚りを得た」とは、
- 知識や論理で仏の境涯に至るのではなく、
- 仏の久遠の本懐に“信”をもって直入したということ。
🔶◆ 「以信代慧」は、まさに赤子の心に通ず
赤ちゃんは、母の顔を“知っている”のではない。
でも、母を“信じている”から、泣きやんで眠る。
これは信によって安心立命(あんじん)を得ている姿。
同じように、我々凡夫も、妙法という仏のいのちを「南無妙法蓮華経」と唱え、
思慮分別を離れ、信心をもって仏界に入る。
ここにこそ「信をもって慧に代える」妙義がある。
🔶◆ まとめ
- 🔸 舎利弗のような智慧第一の者ですら、「信」をもって仏の真意に至った。
- 🔸 わたしたち末法の凡夫は、知ではなく「信」こそが仏界を発動させる。
- 🔸 赤子が理屈なく母を信じるように、凡夫が無心に本尊を信ずるとき、
その信こそが仏智そのものに通ずる。
ゆえに――
信は無知ではない。信とは、分別を超えた“仏の慧”への通路である。
これが「以信代慧」の真義です。
ご要望通り、赤ちゃんの例を活かして説いてみましたが、いかがでしょうか?
通報 ...