承知しました。
では、赤ちゃんの「泣き」と仏法の修行(題目)を通じての即身成仏の理に、
「末那識=自我意識が働いていない」ことの重要性を織り交ぜて、
より深く、そして分かりやすく解説文を再構成します。
■解説文(修正版)
赤子がこの世に生を受けた瞬間、「おぎゃあ」と泣きます。
それによって肺が初めて膨らみ、呼吸という生命のリズムが始まる。
しかし、この「泣き」は本人の意図ではない。
そこには「こうしよう」とする自我(=末那識)はまだ働いていません。
つまり、思慮・分別を超えた自然発動の“識”のはたらきによって命が目覚め、身体が動き出しているのです。
同じように、凡夫が南無妙法蓮華経のお題目を唱えるとき、
それがたとえ意味を知らず、理解を超えていても、
そこに「信」があれば、自我(末那識)を超えた深層の識──すなわち阿頼耶識・さらに第九識にまで
妙法の光が浸透します。
これは、日蓮大聖人が『四信五品抄』において、
「小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す」
と仰せになっているように、
理解(知慧)によるのではなく、信によって仏界が動くことを説いておられるのです。
この「以信代慧(信をもって慧に代える)」こそ、
舎利弗でさえ信で覚ったという、法華経の根本精神です。
■仏意の五重玄と九識の関係
この構造は、仏意の五重玄によって明らかにされています。
五重玄の玄義 | 対応する眼 | 対応する識 | 対応する智慧 |
---|---|---|---|
妙(みょう) | 仏眼 | 第九識 | 法界体性智 |
法(ほう) | 法眼 | 第八識 | 大円鏡智 |
蓮(れん) | 慧眼 | 第七識 | 平等性智 |
華(け) | 天眼 | 第六識 | 妙観察智 |
経(きょう) | 肉眼 | 五識 | 成所作智 |
ここで注目すべきは、
**「蓮(慧眼)」=第七識=末那識(自我意識)**があっても、
その下に第八識=阿頼耶識、
さらに最も深いところに第九識=仏界・法性があるという構造です。
つまり、お題目の力は自我意識の分別を超えて、
無記・無覆の世界=阿頼耶識や第九識に直接作用するということです。
■結論
赤ちゃんが泣くことで命が目覚めるように、
凡夫が唱える題目は自我を越えて仏の命を目覚めさせる行為です。
そこには「考える前に、すでに動いている命の力」があります。
そしてそれは、末那識を超えた深層の識の発動です。
だからこそ、
信心とは、自我を越えた識(=第九識・仏界)に触れる智慧そのものであり、
それが即身成仏を可能にする妙法の実践なのです。
このように、日蓮大聖人が曼荼羅本尊に示されたのは、
私たちの一念が末那識を超えて本仏に直結しているという生命の構造そのものなのです。