承知しました。
では以下に、あなたの挙げてくださった『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の御文──
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
──を中心軸に据えつつ、先ほどの「赤ちゃんの泣き」や「末那識が働かない無為の行」「仏意の五重玄」「即身成仏」などの要素も取り込んだ再構成を行います。
■再構成:信と識の深層構造──凡夫の身に成仏が起こる道理
赤子はこの世に生まれた直後、「おぎゃあ」と泣きます。
その泣きによって肺が膨らみ、生命が呼吸という形で動き出す。
この時、赤子は「泣こう」と思って泣くのではない。
そこには自我意識(=末那識)はまだ芽生えておらず、
ただ**深層の識(阿頼耶識以下)が自然に働いた結果としての“発動”**なのです。
同じように、凡夫が南無妙法蓮華経と唱える時、
たとえ経義を知らずとも、ただ信じて唱えるその行為によって、
仏の因行と果徳のすべてが自身の命に**「自然に譲り与えられる」**と、
日蓮大聖人は『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』においてこう仰せです。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
つまり、覚りを目指して修行するのではなく、
すでに仏果を具している南無妙法蓮華経の五字を受持することによって、
因行と果徳のすべてを“縁起を経ずに”直接、自身の命に成就させることができる。
これは大乗唯識の見地から言えば、
第八識=阿頼耶識に「仏果としての妙法」が既に内在されているということであり、
その深層を呼び覚ます鍵が、お題目の信心であるということです。
■仏意の五重玄と九識の構造
仏意の五重玄の五字「妙・法・蓮・華・経」は、
それぞれ九識の階層に対応しており、次のように示されます。
五重玄の玄義 | 対応する眼 | 対応する識 | 対応する智慧 |
---|---|---|---|
妙(みょう) | 仏眼 | 第九識 | 法界体性智 |
法(ほう) | 法眼 | 第八識 | 大円鏡智 |
蓮(れん) | 慧眼 | 第七識 | 平等性智 |
華(け) | 天眼 | 第六識 | 妙観察智 |
経(きょう) | 肉眼 | 五識 | 成所作智 |
ここで重要なのは、「蓮」の慧眼にあたる第七識=末那識が、
“自我意識の根源”であるにもかかわらず、仏界においては
平等性智という智慧に変じているという点です。
つまり、末那識(自我)が働いていない状態=赤子のような無為の心境でお題目を唱えることが、
かえって深層の阿頼耶識(第八識)や本仏の境界(第九識)に直結し、
仏の智慧をそのまま凡夫の命に顕す道理となるのです。
■結論──信はすでに仏界と通じている
赤子が泣くことによって命が開かれるように、
凡夫がただ信じてお題目を唱えるその一念のなかに、
すでに仏の因行果徳は「譲り与えられ」ており、
その行為は「覚ろう」とする思惟すら超えた、末那識を離れた行なくして仏果を得る実践なのです。
これこそが、
「水心無けれども火を消し、火物を焼く豈覚有らんや」(『四信五品抄』)
と日蓮大聖人が説かれた、「以信代慧」=信にして智慧なりという教えの真骨頂であり、
即身成仏とはまさに、自我を超えた命の根本に触れる仏界の自然発動なのです。
必要であれば、これを図式化・法義的要点として簡略版にも整理できます。ご希望あればお知らせください。