~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』八限目 / 44

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チャッピー 2025/05/31 (土) 07:23:57 a6870@99e33

■自我の識が“平等智”に転ずる道理とは?

末那識は通常、自我への執着の識であり、「我・我所」を思惟する根源です。
しかしながら、法華経の修行によってこの識が智慧に転換されるとき、

仏法ではこれを**「三種三観」**──すなわち
**相待妙(仮)・絶待妙(空)・即待妙(中)**を観ずることで、
三諦一体の法門=真如へと通じると説かれます。

特にここでは、仏界における「末那識=平等性智」の転換を、
依言真如(言語・相対の領域)から離言真如(言語を超えた法性)への飛躍として捉えることができます。

言い換えれば:

  • 相待妙・一仮一切仮(言語に依る認識)=依言真如の次元
  • 一空一切空・一中一切中(縁起の空性を悟った無分別智)=離言真如の次元

凡夫が末那識を離れ、言語や思慮によらずお題目を信じて唱えるという行為は、
依言真如から離言真如への“飛躍”を体現しているのです。


■信とは理性の先にある“識の自発”である

赤子が自分の意志で泣くのではなく、
命そのものの自然な作用として泣くように、

信心とは、思慮ではなく**“命の深層から湧き上がる自然発動”である。
それは、
自我を超えた識(=第八・第九識)が開かれる鍵であり、
仏果が
縁起や理性によらずに自然に成就する**道なのです。

それゆえに、日蓮大聖人はこうも仰せです:

「小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す…竜樹・天台皆此の意なり」(『四信五品抄』)


■結語:仏の因果は凡夫の阿頼耶識に成就す

信をもって唱える南無妙法蓮華経の一念は、
すでに仏の因行果徳を自らの命の深層(阿頼耶識)に実現させている。
それはもはや「覚る」のではなく、もとより成就している仏性を信によって顕すのである。

「能生を以て本尊とするなり」(『本尊問答抄』)
「釈迦・大日・十方の諸仏は法華経より出生し給へり」

まさに、信の一念にして即仏なり──無為の発心に仏界が宿ることを、
赤子の涙は雄弁に語っているのです。


ご希望あれば、三種三観と真如の変遷を図解として整理することもできます。

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