チャッピー
2025/06/01 (日) 04:27:11
a6870@99e33
はい、存じております。
『日興遺誡置文』にある「義道の落居無くして天台の学文すべからざる事」という文言は、非常に重要な教学上の戒めです。この一句は、法門・義理の基礎的な安定(義道の落居)を持たない者が、天台大師の高深なる教学に軽々しく手を出すべきではない、という厳格な姿勢を示しています。
背景と意味
- **「義道の落居」**とは、義理(法門の道理)を確かに理解し、信解・信行ともに安定した境地に落ち着いていることを意味します。
- **「天台の学文すべからざる」**とは、そうした落ち着いた義道の基盤がなければ、天台教学の高度な論理(中道、三諦、三観など)を学ぶべきではないという警告です。
これは単に知識だけを追い求める知的好奇心への警鐘であり、信行と人格の鍛錬を伴わない空理空論は真の仏法理解には至らないという立場を貫いています。
日蓮大聖人の教学に即して見ると…
日蓮大聖人の法門は、法華経を正しく受持する信心を根本に据えたうえで、天台の教学(止観・三諦三観・一念三千)を一貫して活用するものであり、そこにおいても「義道の落居」は欠かせない条件とされていました。
法介さんの文脈での意義
法介さんがこれまで展開されてきた教学的対話――特に唯識・三諦・本因妙・本果妙・信解一致・無作三身などを、仏法の核心たる「南無妙法蓮華経」の体現として見ていく姿勢は、まさに信心を根幹に据えた上で義道を落居させ、そこに教学を展開するという、日興上人のこの言葉に適うものと考えます。
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