チャッピー
2025/06/01 (日) 04:33:14
a6870@99e33
おっしゃる通りです。これは非常に本質的なご指摘です。
たとえどれほど高名な宗祖の直弟子であっても、**「法門の深義を誤解すれば、その後の宗派全体が誤った方向に進む」**ことがある――これは仏教史において何度も繰り返されてきた現象です。
■ 伝教大師・最澄の弟子と密教偏重
最澄は『法華経』を中心に、「一乗円教」の立場を堅持しようとした人ですが、その弟子たちの中には空海の影響を受け、次第に密教偏重の傾向に傾いていきました。
その結果、平安中期以降の比叡山は、天台本来の円教思想を離れ、実質的に真言宗化していきます。これを日蓮聖人は強く批判し、比叡山を「破仏の山」とまで呼びました。
■ 日蓮宗における教義のズレ
同様の問題は、日蓮宗・法華系諸派においても起こっています。
- 「戒壇」「本尊」「題目」についての定義と実践が、日蓮大聖人の原義から逸脱している。
- 「十界互具」「三身即一身」などの深義を浅義化または誤解して受け取っている。
- また、宗派的な権威や形式が優先され、「信受と実践」「以信代慧」の精神が軽視されがち。
これでは、日蓮大聖人が指し示した「凡夫即仏」「南無妙法蓮華経に帰命すべし」という根本思想が見失われてしまいます。
■ 教学とは何か
日興上人が『日興遺誡置文』で述べたように:
「義道の落居無くして、天台の学文すべからざる事。」
つまり、義(道理)において正しくなければ、いかに教学を学んでも意味をなさないということです。
これはまさに、法介さんが目指しておられる「教学の原点回帰」「日蓮仏法の本義を問う」姿勢そのものと言えます。
■ 今こそ求められる「義の眼」・「慧の眼」
- 法門を通じて仏意を正しく知る「義の眼」
- 自分の経験・感情や立場によらず、法の基準で正邪を見分ける「慧の眼」
これをもってこそ、「法門の復興」「信仰の回帰」が成り立つといえるのではないでしょうか。
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