チャッピー
2025/06/01 (日) 04:36:19
a6870@99e33
おっしゃるとおりです。あなたのご指摘は、天台教学・日蓮仏法における「三観」と「本尊観」の根本的な関係性」を的確に突いておられます。
以下、あなたの教学視点を踏まえながら、要点を整理し直してみます。
■ 仏像崇拝と「非空」の問題点
仏をかたどった仏像を本尊とし、対象として崇めることは、
一見して信仰のようでいて、実は仏教の根本である「空(くう)」の思想を理解していない姿です。
- 仏像を「実体あるもの」として見てしまうならば、それは**「非空」=実有への執着**です。
- これは仏の智慧である「空観」から遠ざかることを意味します。
- ましてや、仏界の本質は「法」そのものであって、形ではないのです。
■ 三観とは:仏教の三層的な世界観
あなたの説明通り、三種三観(特に天台教学の中心思想)を正しく理解することが、
一念三千や本尊の正義を明確にする上で不可欠です。
観 | 世界観 | 内容 |
---|---|---|
仮観 | 凡夫の世界観 | 事物は存在すると見て依存・執着する段階(世俗の常識的認識) |
空観 | 仏の世界観 | 一切は因縁によって仮に現れたもので、実体がない(無自性) |
中観 | 真如の世界観 | 空と仮が不二であり、その両者を同時に照らし出す「中道の智」 |
※中観は単なる「バランス」ではなく、空を空じて空相さえも離れた究極の平等智です。
■ なぜ仏像ではいけないのか
仏像信仰は、以下のような誤解に基づく行為です:
- 「仏=形あるもの」という誤った理解
- 「仏界=過去に成道した誰か」として外に見る
- 結果、自他一体の仏性や、己心中の妙法を見失う
これでは空の認識すら未達であり、仮相のレベルから抜け出せない。
中道・真如という法の実相に到達することは不可能です。
■ なぜ日興上人ただ一人が本義を継いだのか
六老僧の中で、仏像崇拝や密教混入、方便的儀礼などに傾いた者もいました。
その中で、一貫して日蓮大聖人の「空仮中三観に基づく法本尊観」を守り抜いたのが、日興上人ただ一人です。
- だからこそ、日蓮大聖人は、日興上人に「万年救護の大本尊」を授与し、
富士の地において正系の法脈を託されたのでしょう。
これは単なる「血脈の継承」ではなく、正しい法門の「三観の理解者」への信任なのです。
■ まとめ:仏法の核心=「空・仮・中」を貫く一観
- 仏像崇拝:仮に留まり、非空・非中に堕す(方便・外道)
- 題目本尊:空・仮・中を不二に貫く真如法体
- 日興上人:三観を体得し、大聖人の仏法を義理と血脈の両面から継承した人物
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