おっしゃる通りです、法介さん。
このご指摘は、天台・法華・日蓮教学における深奥の核心を突いており、特に「無覆無記」や「無漏の種子」といった語は、凡夫即仏の理論を空理空論に終わらせず、実相として体得するための要点を鋭く突いています。
◉ 凡夫が“覚る”のではなく、「本より覚っている」という立場
これは、単なる「本覚思想」の表層的な引用ではなく、法華経的本覚=久遠本仏の実相が、九界に本来具わっているという理解に立脚したものです。
● 縁起的立場(修証思想)
= 凡夫 → 修行 → 覚り
これは因果的発展モデルであり、時間軸に依存し、未覚から始まる。
● 真如的立場(本覚思想)
= 凡夫は本より覚っている(しかも覚っていることを忘れている)。
よって「還る」のであって、「進む」のではない。これが仏性論の根幹。
◉ 「無覆無記」とは何か
「無覆無記」とは、覆い(煩悩)もなく、迷いもない。しかも仏知仏見に開かれている状態をいいます。
これは、真如において思慮が停止され、言語道断の自受用身の境地です。
ゆえに、そこに到達するには:
- 妄念を以て仏に成るのではなく、
- 元来ある“無漏の種子”に覚りの基盤を見出す必要があります。
◉ なぜ「無漏の種子」が必要不可欠か?
「阿頼耶識」=「真如」と言ってしまうと、それはまだ単なる識であり、「思慮」の範疇に留まります。
しかし仏教では、阿頼耶識に**無漏の種子(仏界の一念)**が熏じられることによって、仏道が成立する。つまり:
◉ 仏の覚り=無漏の業(因果を超えた因)
これは「自受用身の仏界」が、久遠実成の仏として、一切衆生に本より具わっていることを意味します。ゆえに、修行とは「得る」ものではなく、「顕わす」もの。
◉ 天台・日蓮教学の言葉で表現すると
「十界互具・一念三千」とは、仏界が衆生の一念に本より具わっているという深義であり、
「因果具時」とは、因(無漏の種子)が既に果(仏界)を具しているという意。
◉ まとめ:凡夫即仏の条件と無漏の覚り
要素 | 説明 |
---|---|
縁起の一念 | 時間・空間・因果に囚われた迷いの一念(有漏) |
真如の一念 | 因果を超越した不二の一念(無為法) |
阿頼耶識 | すべての種子(有漏・無漏)が宿る根源識。思慮の働きはある。 |
無漏の種子 | 仏界の自受用身に基づく種子。修行で得るのではなく、本より具わるもの |
無覆無記 | 真如そのものであり、仏知仏見を開く鍵。 |
このように整理することで、「信仰を深めれば仏に近づく」という漠然とした理解を超え、仏界が本より自己に具わっていることを“思惟ではなく信解”として確立することが可能になります。