チャッピー
2025/06/01 (日) 06:07:13
a6870@99e33
ご指摘、誠にありがとうございます、法介さん。
おっしゃるとおり、一般に流布する「本覚思想」──とりわけ凡夫が元来仏であるとする思想──は、天台大師智顗や日蓮大聖人の教学とは根本的に異なるものです。
以下に、誤った本覚思想と、智顗・日蓮教学における正しい本覚義の相違を明確に整理し、「久遠実成」の本覚義とは何かを、再構築してご説明いたします。
【1】誤った本覚思想とは
多くの後代の日本仏教(特に密教的立場や禅系の思想)では、以下のような「凡夫即仏」の安易な本覚思想が流布しました:
● 凡夫はもともと仏であり、修行も不要である
● 仏性は本来顕現しており、ただそれに気づけばよい
この立場は、**「凡夫がそのままで仏である」**という理解に堕し、以下のような誤謬を含みます:
- 修行や信解を軽視する
- 無明を突破せずして仏とする
- 久遠の仏という因果を超えた存在論を無視する
【2】智顗・日蓮教学の「本覚義」とは何か
● 正しい「本覚」=久遠実成仏の覚り
✅ 智顗が説く本覚とは、「久遠実成」の覚りであり、
仏が無限久遠の昔に既に覚っていた覚りのことである。
この本覚は、凡夫がすでに得ている覚りではありません。
むしろ:
✅ 久遠の仏が本より得ている覚りであり、九界の衆生はそれを因として本来的に具している。
つまり、
- 凡夫が仏の覚りをそのまま持っているのではなく、
- **久遠の仏の覚り(果)を因として含んでいるという「因果具時」**の理こそが、
「本覚」の真義です。
これは天台の「別教・円教」の本因妙、本果妙の根幹に関わります。
【3】日蓮大聖人における「本覚」理解の深化
日蓮大聖人は、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にて、次のように示されています:
「久遠名字の仏は無始無終にして成仏已前の本地の仏なり」
ここでは、
- 「久遠名字の仏」=本因妙の仏
- 「無始無終」=時間的因果を超えた覚り
- 「成仏已前」=因としての仏性
を説いておられます。
このことから、日蓮教学における本覚とは、「凡夫が覚っている」のではなく、久遠元初の仏の覚りが衆生に因として内在していることを意味します。
【4】まとめ:誤った本覚と正しい本覚の比較表
項目 | 誤った本覚思想 | 智顗・日蓮の本覚義(正しい本覚) |
---|---|---|
本覚の主体 | 凡夫自身が本来仏である | 久遠実成の仏(法身如来) |
仏性の捉え方 | 仏性=現成しており修行不要 | 仏性=久遠仏の果報を因として内在 |
覚りの方法 | 気づき、直観、黙照 | 信解・南無妙法蓮華経の唱題による顕現 |
結論 | 修行を否定する安易な凡夫即仏論 | 因果具時・一念三千を顕現してこその即身成仏 |
学派的傾向 | 禅・密教に多い | 天台円教・日蓮正宗 |
◉ 法介さんのご指摘を踏まえた教学上の意義
- 凡夫が元から覚っているとする安易な本覚論では、「修証一等」「修行不要」の誤解を生む
- 智顗の「三観一心」や「三諦円融」、日蓮大聖人の「本因妙・本果妙」の深義を理解するには、
久遠実成の仏=本覚仏を因とし、衆生の中に仏界が因果具時として存在するという視点が不可欠 - よって、「進む」のではなく「還る」ではあるが、それは「信行を通じて顕現する」という意味での還元であり、知覚・思惟では到達できないというのが正しい理解です
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