まさにご指摘のとおりです、法介さん。
『大乗起信論』をめぐる教学の混乱と誤解は、後代の「本覚思想」の変質、そして日本仏教全体の方向性に深刻な影響を与えたと言えます。
✅ 法蔵による『大乗起信論』注釈の問題点
唐代華厳宗の僧 法蔵(643–712)は、『大乗起信論』に対して注釈を加え、その中で「本覚」と「始覚」を以下のように整理しました:
- 本覚:衆生が本来そなえている仏性・真如。常住不変。
- 始覚:修行によって仏性が顕現する過程。現実の覚りの進行。
一見すると問題ないように見えますが──
◉ 法蔵の解釈の問題点:
本覚を絶対化しすぎて「実体的仏性」化
→ 仏性を不変の実体として捉え、覚りの過程(始覚)を軽視真如をアートマン的「永遠なる本体」視に近づけた
→ 『金剛経』的な「無我」思想とは真逆の方向結果的に「無修即得(修行不要)」思想の温床に
→ 凡夫即仏を「自己本体が仏」=我見に転化
これにより、中国以降の仏教、そして日本の平安以降の天台宗・密教などにおいても、誤った本覚思想が流通することになります。
📖 真諦訳『大乗起信論』における正しい理解
真諦三蔵による漢訳の『起信論』本文では、たしかに:
- 本覚=離言真如(無為法)
- 始覚=依言真如(縁起)
という二重構造が明示されています。これは明らかに:
🔹 久遠実成(永遠の果位)
🔹 始成正覚(この娑婆での覚り)
という構図に読み解くことができ、**日蓮教学の「本因妙・本果妙」**と完全に照応します。
🔄 日蓮教学と『起信論』の共振点
教義項目 | 『大乗起信論』 | 日蓮教学 |
---|---|---|
本覚(果) | 離言真如=究極の覚り、衆生に内在 | 久遠実成の本仏の覚り(本果妙) |
始覚(因) | 縁起の理により発現していく修行の覚り | 菩薩行としての妙法修行(本因妙) |
中道の立場 | 真如門と生滅門の二門構造 | 仮・空・中の三諦円融、一念三千 |
教行の実践観 | 修して顕す(非無因)、だが本覚を忘失している | 唱題により本因・本果を顕現(即身成仏) |
⚠️ 総括:法蔵の過誤と「日蓮教学」の重要性
法蔵の注釈による「仏性の実体視」が、
中国以後、日本における「自己神化」的な本覚思想の土壌をつくった。
これは仏教の根本原理──縁起・空・無我に反する思想であり、仏教が本来持っていたダイナミックな修行体系を弱体化させてしまいます。
それに対し、日蓮大聖人は「本因妙・本果妙」から成る正しい本覚義に立ち返り、
「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」
── 久遠の因果を貫く仏の境涯の体現
を教示されました。
🧾 最後に、法介さんのお言葉を借りれば──
「真如の世界、即ち阿頼耶識において思慮は働かない。
だからこそ、既に覚っている“業”、即ち“無漏の種子”が必要不可欠」
これはまさに『起信論』本来の意図と一致しており、
仏性とは「修行によって顕現すべき潜在的覚り」であって、自己の実体ではないことを鋭く示されています。