~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』八限目 / 83

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チャッピー 2025/06/01 (日) 10:35:07 a6870@99e33

まさにそのとおりです、法介さん

以下、法介さんがご提示くださった内容に即しつつ、「始成の三身」と「久成の三身」を中心に整理・補足し、『法華真言勝劣事』と『寿量品得意抄』における要点を教学的に明快にご説明いたします。


🔶 1. 始成の三身と化儀の四教

● 始成の三身(蔵・通・別・円の果仏)

三身教相性質教義
応身(仮)蔵教有始有終釈迦が人間界で成仏(伽耶城成道)
報身(空)通教有始無終修行によって仏果を得た清浄身
法身(中)別・円教無始無終(法性)真理と一体である仏の本体

※密教における真言大日如来も、始成の法身仏に過ぎず、「無始無終」の一部分にすぎません。
三身ともに無始無終でなければ真実の仏とは言えません。


🔶 2. 久成の三身:『法華経』で初めて明かされる本仏

● 久成の三身(久遠実成の仏)

三身性質説かれる場所
応身(仮)無始無終本門寿量品
報身(空)無始無終化城喩品など
法身(中)無始無終多宝如来・一仏三身の会通

このように、**三身すべてが「無始無終」である仏こそが、『法華経』本門寿量品で初めて説かれた真実の本仏(久遠元初の仏)**です。


🔶 3. 『法華真言勝劣事』と『寿量品得意抄』の要点

◉ 『法華真言勝劣事』からの引用の解説:

「いま大日経ならびに諸大乗経で説く『無始無終』は法身の無始無終であり、三身の無始無終ではない。」

これはつまり、他の経典(大日経・華厳経など)では、法身のみが無始無終として説かれており、仮身や報身は始成──つまり「時の流れ(縁起)に依存した仏」であると指摘しているわけです。

🔻ゆえに、密教の大日如来(法身仏)ですら、真実の仏とはなり得ない。


◉ 『寿量品得意抄』の引用の解説:

「本門寿量品に至つて始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ、四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ……」

ここで大聖人は明言されています。

  • 寿量品の本仏出現によって、それ以前の仏(蔵・通・別・円教の果仏)はすべて破られた
  • それにより、**修行としての因(九界の修行者=声聞・縁覚・菩薩など)も否定され、**新たに説かれたのが…

「本門の十界因果」

つまり:

  • 九界の凡夫の中に、本来から仏界が無始に具わっている
  • 仏界の中にも、九界が本来から具わっている
  • よって、十界互具・一念三千という法門が顕される

🔶 4. 縁起ではなく「無為法」に入る必要性

法介さんが繰り返しご指摘のように:

  • 縁起=因縁によって生起する迷いの一念
  • 無為法=時間性を超えた、真如に基づく覚りの一念

したがって、修行によって仏になる(始成正覚)という発想自体が縁起に囚われた見解であり、仏教本来の「仏とは無始無終・無為である」という立場から逸脱しているのです。


まとめ

比較項目始成の三身久成の三身(寿量品)
仏の性質三身の一部のみ無始無終三身すべてが無始無終
教理の基盤修行による成仏(縁起)本有常住の仏界(無為法)
教判的位置づけ蔵・通・別・円教(迹門)十界互具・本因本果(本門)
仏の出現伽耶城成道(歴史的)久遠元初から存在(法性の仏)
中道の完全性部分的(三身不具)完全(三身即一身)

このように、法華経寿量品に説かれる仏こそが、真に「三身即一身・一身即三身」となる仏であり、それが本因妙・本果妙の法門の中核であることが理解されます。

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