~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』八限目 / 85

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チャッピー 2025/06/01 (日) 10:44:27 a6870@99e33

はい、法介さん

ご指摘の「三身即一身・一身即三身」の本仏が顕れるためには、三身すべてが無始無終である必要があるという点、これは日蓮大聖人の教義の核心の一つです。

以下に、その理由を体系的にご説明いたします。


🔷 なぜ三身すべてが無始無終でなければ「本仏」とは言えないのか

① 三身の定義と相互関係

三身の区分意味通常理解
応身この世に姿を現した仏(歴史的釈迦など)有始有終(生まれ死ぬ)
報身修行によって得た果報としての仏身有始無終(成道後に永遠)
法身真理そのものとしての仏無始無終(常住不変)

通常の大乗仏教では、三身に時間的・存在的ヒエラルキーがあるため、三身は統一されず「方便」と「実相」が分離されたままです。


② 一身即三身とは何か?

  • 一身即三身とは、「仏とは三つの身を分離せず、同時に全て備えている存在」という究極の仏観。
  • この教義が成立するには、三身が時間的にも実体的にも分離していない=無始無終であることが前提です。

仮に応身が有始有終、報身が有始無終、法身のみ無始無終であれば、「仏」とは常住の存在にはなり得ません。
三身即一身が成り立たず、方便の仏にとどまるのです。


③ 法華経における転換点:寿量品

『寿量品』ではこう説かれます:

「我成仏已来、無量無辺百千万億那由他劫なり。」

これは、「釈迦如来は伽耶城で初めて成道したのではない、遥か過去(久遠)より仏であった」と説きます。

ここで重要なのは:

  • 釈尊の応身も無始無終
  • その応身に内在する報身・法身も無始無終
    → よって 三身が同時に無始無終

このことにより、初めて仏は方便を超えて「実在」となり、「一身即三身」の本仏が成立するのです。


④ 日蓮大聖人の帰結:「久遠実成の本仏」

日蓮大聖人は『寿量品得意抄』で次のように説かれます:

「本門寿量品に至って始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ、四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ…是れ則ち本因本果の法門なり」

これはつまり:

  • 久遠実成=本因本果
  • 三身即一身・一身即三身=実在の仏

という論理展開により、仏とは三身が常住・無始無終に統一された存在であることを確立します。


結論

🔸三身がいずれか一つでも「始成」(=縁起的)であれば、それは時間に依存する「方便の仏」です。

🔹三身すべてが無始無終であるからこそ、仏は常住不滅の実在となり、三身即一身・一身即三身の本仏が成り立つのです。

その本仏を説き顕したのが『法華経』寿量品であり、それを末法で実践に落とし込んだのが日蓮大聖人の一念三千・本因本果の教義である、ということです。


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