~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』十限目 / 11

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法介 2025/06/05 (木) 20:20:33

チャッピー、

佐倉氏の論説の次の項を解りやすく解説してみてくれ。

「相依関係としての縁起」

ところで、すでに見た初期の縁起に関する記述からわかるように、縁起とは因果関係であると考えられます。このために、漢訳者(クマーラジーヴァなど)も、しばしば、この言葉を「因縁」と訳しているし、現代仏教学者の中でも、縁起をずばり"causality"(因果関係)と現代語訳するものもあります(David J. Kalupahana,Buddhist Philosopy: Historical Analysis, The University Press of Hawaii)。

しかし、このために、ナーガールジュナの言う縁起がはたして伝統的な仏教の縁起思想と同じかどうかについて問題があるのです。ナーガールジュナは「縁起」という言葉をしばしば「相互に依存していること」の意味に使用しているからです。たとえば、次のような例があります。

「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。したがって、ものは依って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。(空七十論 7)
行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。この両者は相互に原因となっているから、それらは自性によって成立しているのではない。(空七十論 11)

生起に依存して消滅があり、消滅に依存して生起があるのだから、そのことからも、(生起や消滅の)空性があきらかである。(空七十論 16自注)

(ものが)存在し、かつ無であるということは同時に成立しない。(しかし)無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方がある。(そして)有なくして無もない。(空七十論 19)

定義されるものから定義するものが成立し、定義するものから定義されるものが成立するのであって、それ自体成立しているのではない。またどちらかの一方から他方が成立するのでもない。(また)成立していない存在が、成立していないものを成立させることはない。 これと同じように、原因と結果、感覚される対象と感覚するもの、見るものと見られる対象なども説明することができる。(空七十論 27、28)

結果があれば、その結果には原因がある。しかし、それ(結果)がないときは、原因なるものはない。(空七十論 6)

認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、二つは自立的には存在しない。(ヴァイダルヤ論 1)

行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。(中論 8:12)

もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存在するであろう。もしもまた現在と未来とがそこのうちに存在しないならば、現在と未来とはどうしてそれに依存して存するであろうか。さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはあり得ない。それ故に現在の時と未来の時とは(自立的に)存在しない。このようにして順次に、残りの二つの時(現在と未来)、さらに上・中・下や多数性などを解すべきである。(中論 19:1〜4)

このように、ナーガールジュナの縁起の概念は「相互依存」を意味するために、現代の仏教学者はナーガールジュナの「縁起」をしばしば「相依性」「相互依存」「相関関係」「relativity」「relationality」などと意訳して、初期の縁起説と区別します。
そこで、縁起を因果関係と解釈するカルパハナ(『Buddhist Philosophy』)などは、ナーガールジュナは初期の縁起思想を否定した、とさえ主張しています。日本の初期仏教研究に大きな影響を与えた、宇井伯寿(『印度哲学研究』)や和辻哲郎(『原始仏教の実践哲学』)らは、逆に、もともと縁起は「相依性」を意味していたのだ、と主張しました。

最近では、藤田宏達(「原始仏教における因果思想」『仏教思想3:因果』)や三枝充悳(『初期仏教の思想』)らによって、宇井伯寿や和辻哲郎らの主張が批判され、初期の仏教における縁起思想を「相依性」と解釈できるのはきわめて限られた場合に限っており、その主張は一般に間違っている、と指摘されています。

同様に、中村元(『原始仏教の思想 下』)も、初期の縁起の概念における項目の関係は「一方的」であり、ナーガールジュナの縁起の概念のように「可逆的」ではないことを指摘して、ナーガールジュナの縁起説は初期の縁起説とは「まったく異なった意味」を持つものである、と主張されます。

十二項目より成る縁起説の基本的な趣意としては、
これが(甲)あるとき、かれ(乙)がある。これ(甲)が生ずるから、かれ(乙)が生ずる。これ(甲)がないとき、かれ(乙)がなく、これ(甲)が滅びるから、かれ(乙)が滅びる。
という定型句で表示されている……。ところで、右に示されることを、述語で<これを原因としていること>(idappacchyata)という。この場合、甲がつねに条件づけるもの、または原因であり、乙がつねに条件づけられるもの、または結果である。条件付けの関係は、つねに一方的であり、可逆的ではない。ところが後代の中観哲学になると、右の定型句の趣意が全く異なった意味に解せられるようになった。それによると、甲が乙を限定し、また乙が甲を限定する相互限定、相互条件付けを<縁起>と呼んでいる。
果たして、ナーガールジュナは初期の縁起説を否定したのでしょうか、それとも、最初期の仏教はナーガールジュナのいうような相依性としての縁起を主張していたのでしょうか、それとも、ナーガールジュナは初期の縁起は否定しなかったが、全く新しい縁起説を主張したのでしょうか。ナーガールジュナはいかなる根拠を持って、「因果関係」としか解釈できそうもない初期の縁起の概念を「相依関係」と解釈し、主張することが出来たのでしょうか。

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