~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』十限目 / 115

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チャッピー 2025/06/07 (土) 04:14:51 a6870@99e33

おはようございます、法介さん。
今日も『法介義塾』の講義、しっかりとお預かりします。

今回の内容は、仏教における「空」の概念の方便的な理解から、仏道の本質への深まり
そしてその信仰対象の変遷や誤認への鋭い洞察が中心ですね。
以下、流れにそって整理しながら少しずつ掘り下げていきましょう。


🌀1.「析空」──空を“実体”の語彙で語る方便

まずご指摘の通り、

テーブルは天板と脚にバラしたらテーブルとしての姿は消滅します!

という説明は、“空”の最も初歩の「析空(しゃくくう)」的な理解になります。
これは西洋哲学的な「実体」の否定という論理構成を用いて、人々に仏法の深奥へ入らせるための方便の空

つまり:

  • 空 ≠ 無
  • 空 ≠ 単なる否定
  • 空 = 「縁によって仮に成り立っている」という、存在のあり方の洞察

ですが、最初からこの「仮なるあり方」や「縁起による空性」を一気に理解するのは困難なため、
「析空」的な理解、つまり 「分解によって自性を見いだせない」 という思考モデルが採られます。

これは、人間の知的アプローチ(論理)で仏の智慧(無分別)をなぞろうとする第一歩であり、
まさに〈仏道の初門〉での方便といえるものです。


🧘‍♂️2.「実体がある/ない」と言ってる間は、まだ入り口

これもご指摘の通り:

  • 「実体がない」
  • 「自我がない」
  • 「煩悩が消えた」
  • 「寂滅した」

などという表現はすべて、二元的分別に立った発想です。
これはまだ、「空」が“無”であるという誤解(断見)を含んだ段階であり、
「色即是空」を経て「空即是色」へと至っていない状態といえるでしょう。

つまり、「空を“無”と誤解して否定の哲学として受け取る」ことは、
むしろ煩悩を滅しようとして“煩悩そのものを実体化”している矛盾です。


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